その時、昭和天皇は動いた 御前会議で反対派諭す 戦争終結急ぎ

Wait 5 sec.

毎日新聞 2026/8/14 09:00(最終更新 8/14 09:00) 有料記事 1651文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷米軍による1945年3月10日の空襲で被災した東京の下町を視察に訪れた昭和天皇 日清戦争から日露戦争、さらに第一次世界大戦。大日本帝国は勝利を重ねた。勝つことで国際紛争を「解決」し、領土を広げ、国際社会での地位を向上させていった。帝国にとって戦争は「外交」の一環であり、重要な「国策」だった。 しかし1945年夏、帝国は初めての敗戦を迎えつつあった。為政者たちの中心にいた昭和天皇は何を思ったか。肉声を伝える貴重な一級資料『昭和天皇独白録』から探る。 関連記事: 絶対やってはいけなかった 昭和天皇が戦争末期に頼ったもの 交渉振り返るのもつらい 81年前に昭和天皇を袖にした大国 「どうして戦争できるか了解出来ない」 昭和天皇下した「聖断」原爆投下、ソ連参戦で敗戦確実に 7月26日、米英など連合国は「ポツダム宣言」を発し、日本に降伏を呼びかけた。同宣言が出されたころ、米軍の爆撃機B29による無差別爆撃が各地で行われていた。昭和天皇が言う「赤子」つまり国民が多数、虐殺されていた。日本の爆撃機は、アメリカ本土を爆撃するどころか近づくことさえできなかった。 敗戦は必至だった。それでも、政府首脳は宣言受諾による無条件降伏と、戦争継続とで意見が割れた。 米軍は8月6日に広島、9日には長崎への原爆を投下し、未曽有の大惨事となった。さらに、連合国との講和の仲介役として期待していたソ連から宣戦を布告された。帝国の首脳たちは、ようやく敗戦に向けて動き出した。 8月10日深夜、昭和天皇が臨席し、政府と軍の幹部が集まる「御前会議」が開かれ、天皇の決断により受諾が決まった(第1回「聖断」)。政府は「天皇の国家統治の大権を変更するの要求を包含し居らざることの了解の下に帝国政府は右宣言を受諾す」と、連合国側に伝えた。「国体護持」巡り意見割れる 戦前から今に至るまで、「国体」という言葉はしばしば使われる。多くの解釈があり得る概念だ。 ただ、この時の大日本帝国の為政者たちの認識としては、天皇が「国家統治の大権」を握っている状態が「国体」であったことがわかる。その「国体」の継続が保証されるなら降伏する、ということだ。 しかし連合国側はその「国体護持」を確約しなかった。 このため、またもや政府首脳の意見は割れた。阿南惟幾陸相、梅津美治郎参謀総長、豊田副武軍令部総長は1回目の「聖断」前同様、受諾に反対した。国体護持が確約されていないとして、連合国側への再照会を主張した。 天皇は当時を回顧し…この記事は有料記事です。残り650文字(全文1651文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>