ヒバクシャ:踏まれ蹴られた遺骨「なんとかせんと」祖父の歩み 伝える82歳

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ヒバクシャ毎日新聞 2026/8/2 05:00(最終更新 8/2 05:00) 有料記事 1886文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷原爆犠牲者の無縁遺骨を納めるため祖父が建てた納骨堂の写真を手に、生徒たちに灯籠作りの由来を話す本田魂さん=長崎市で2026年7月2日、野田武撮影 浦上川やその周辺には無数の無縁遺骨があった。祖父はその遺骨を集め、納骨堂を建てて弔った。 長崎で被爆した本田魂さん(82)=長崎県時津町=は今夏、母校の長崎市内の中学校を訪れ、納骨堂の古い写真を掲げて初めて被爆講話をした。それは、自分には「記憶がないから」とこれまでずっと断ってきた役目だった。 2006年10月に始まった記録報道「ヒバクシャ」は今年で20年を迎えます。今回はヒバクシャをそばで見守る人、関わりのある人たちの思いも交えながら、自分と変わらない「普通の人」である彼ら彼女らが高齢を押して証言する原動力を描きます。父は戦死、母は被爆死 「お母さん、おばあさんの2人は、灰になってしもうとった」 1945年8月9日は爆心地から約940メートルの防空壕(ごう)にいた。当時1歳8カ月。防空壕の入り口が爆心地と反対側にあり、吹き飛んできた畳が覆いかぶさったことで熱線や爆風の直撃を免れた。 母と祖母は、昼食の準備をするため爆心地から約300メートルの長崎市駒場町(現松山町)の自宅に帰っていて爆死した。2人の遺体は、祖母の金歯と焼け残った着物の柄を手がかりに判別した。 父は陸軍で特攻兵となり、45年1月にフィリピン沖で戦死した。両親を亡くした本田さんは、祖父の滝川勝さん(82年に83歳で死去)に育てられた。 旧駒場町内では約3500人が原爆の犠牲になったとされる。地元の人よりも、三菱重工長崎造船所の寮に下宿する県外からの徴用者などが多く暮らしていたためか、身元不明で引き取り手のない遺骨があちこちに残されていた。進駐軍の振る舞い見て…… 町の自治会長をしていた祖父は戦後、進駐軍の兵隊が頭蓋骨(ずがいこつ)を蹴り、上を歩く様子を見た。「なんとかせんといかん」と無縁遺骨を焼け跡で拾った五右衛門風呂に集め、原爆投下から2年後の47年、地域に納骨堂を建てて納めた。 その後も祖父が浦上川で魚を捕まえるため投網をすると、人骨がかかることがあった。本田さんも物心ついてから、籠に骨を集めて持ち帰ったのを覚えている。 爆心地そばを流れる浦上川で8月9日の夜、灯籠(とうろう)を流す「万灯流し」も、祖父や爆心地近くの住民が被爆翌年に始めた。初盆の故人の霊を送る伝統行事「精霊流し」がある長崎で、遺骨の引き取り手がいない原爆犠牲者を供養するために。現在は本田さんが会長を務める「長崎原爆殉難者慰霊奉賛会」が引き継ぐ。 本田さんは2017年、祖父たちが続けた慰霊組織「長崎原爆遺族会」の会長も引き受けた。県内の主要な被爆者4団体の一つとして核廃絶へ向け活動したり、8月9日に長崎を訪れる首相への要望の場に出席したりしている。 記事ではこの後、81年前の記憶がない中で証言を引き受けた本田さんの思いに迫ります。 ただ、被爆体験の手記の執筆や被爆講話にはためらいがあった。「自分には原爆の時の記憶がない」…この記事は有料記事です。残り687文字(全文1886文字)【前の記事】「赤鬼」と言われて 幸せな花嫁が背負わされた残酷な運命関連記事【最新記事】あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>