「だぁれかさんとアソぼ?」©2026「だぁれかさんとアソぼ?」製作委員会 マーベル・シネマティック・ユニバースを代表する作品のひとつ、「ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー」で最初に思い出すのは、意外にも一本のカセットテープである。宇宙をさまようピーター・クイルにとって、それは亡き母の声であると同時に、自分がどこから来たのかを忘れさせない「記憶の媒体」でもあった。 一方、清水崇監督の新作「だぁれかさんとアソぼ?」にもカセットテープは登場する。ただ、役割がまったく異なる。ここでは思い出をしまっておくための品ではなく、名前を記録し、声をつなぎ留め、呪いを受け継いでいくための装置なのだ。Advertisement 同じ媒体が、なぜこれほどまでに違った意味を帯びるのだろうか。 物語に登場するのは、単なるレトロ趣味の表れだと考えることもできる。実際、日本ではカセットテープやフィルムカメラといったアナログ媒体が、ひとつのカルチャーとして再び消費されている。「だぁれかさんとアソぼ?」©2026「だぁれかさんとアソぼ?」製作委員会 しかし、映画を最後まで見終えたあとには、その説明ではどこか物足りなさが残る。少なくとも、清水監督ほどのキャリアを持つ作家が、作品全体を支える装置を単なるノスタルジーに委ねたとは考えにくい。 あらためて作品を振り返ると、投げかけるべき問いはカセットテープではないのかもしれない。なぜ彼は、再び「さな」を呼び戻したのだろうか。意味を書き換えるための反復 言うまでもなく、さなは清水監督の「ミンナのウタ」(2023年)で登場し、自らの歌を呪いとして、歌った人を引きずり込む怨霊(おんりょう)だ。「あのコはだぁれ?」(24年)でも受け継がれた。 今日、一つの世界を再び呼び起こすことは、映画産業においてもはや珍しいことではない。ヒット作は続編を生み、その世界観はフランチャイズとなり、観客が親しみを持って記憶する存在たちは別の物語へと受け継がれていく。 しかし、「だぁれかさんとアソぼ?」は、そうした見慣れた流れだけでは説明できない。さなは帰ってきた。だが、繰り返しではない。むしろ、知っていると信じていた世界をあらためて開き、そこに別の角度から光を当ててみせる。「だぁれかさんとアソぼ?」©2026「だぁれかさんとアソぼ?」製作委員会 本作は、ひとつの出来事を何度も映し出す。しかし、その反復は同じ場面の再現ではない。観客がすでに理解したと思い込んでいる記憶に、少しずつ異なる質感を重ねながら、その意味を書き換えていく。見慣れていた場面は繰り返されるほどに見知らぬものとなり、理解したはずの出来事は少しずつ別の表情を見せ始める。反復は情報を増やすための装置ではなく、意味を書き換えるための装置となる。記憶はたやすく揺らぐ この映画が最後まで観客をひきつけるのは、犯人を突き止める推理の快感ではない。記憶というものが、いかにたやすく揺らぎうるのか――その感覚なのである。 こうした構造は、自然とミステリー映画を思い起こさせる。観客はちりばめられた手がかりをつなぎ合わせながら、事件の全体像を想像していく。 しかし、清水監督が緊張感を持続させる方法は、古典的なミステリーとは異なる。中田秀夫監督の「リング」が隠された真実へと迫っていく過程そのものをサスペンスとして成立させていたのに対し、「だぁれかさんとアソぼ?」は、その過程のいたるところに死と幻影を配置している。「だぁれかさんとアソぼ?」©2026「だぁれかさんとアソぼ?」製作委員会 観客は真実を知りたいという欲望に突き動かされながら前へ進む一方で、次の瞬間に何が現れるかわからない恐怖の中にもとどまり続ける。推理が構造を作るのだとすれば、ホラーはその構造の内部で、絶えず観客の感覚を揺さぶるのである。痕跡としての死 そうして映画を追っていくうちに、ある奇妙な事実が見えてくる。この作品が執拗(しつよう)に見つめ続けているのは、怨霊そのものではなく、「残されるもの」だということである。「だぁれかさんとアソぼ?」©2026「だぁれかさんとアソぼ?」製作委員会 死は一つの出来事の終わりではなく、痕跡として残り続ける。名前は呼ばれ、声は記録され、ある記憶は時を経ても現在を離れない。カメラは生者と死者を分け隔てるのではなく、残された名前と声がどのように時間を越えてやって来るのかを、静かに見つめ続ける。 ここで、日本文化における「言霊」を思い浮かべるのは自然なことだろう。言葉には力が宿り、名前は存在を呼び起こす標(しるべ)であるという古くからの感覚である。 しかし、それだけではなお十分ではない。現代には名前を記録する方法がいくらでも存在するからだ。スマートフォンもあれば、ボイスメモもある。デジタルファイルは、ほとんど無限とも言える複製を可能にしている。にもかかわらず、清水監督はあえてカセットテープを選んだ。カセットテープに残されるもの 作品をあらためて振り返ると、清水監督の関心は、カセットテープに記録された情報そのものではなく、カセットテープという媒体自体に向けられていたように思えてくる。重要なのは、何が録音されたのかではない。それがどのようなかたちで残されるのかという点である。「だぁれかさんとアソぼ?」©2026「だぁれかさんとアソぼ?」製作委員会 デジタルファイルは、オリジナルとコピーの違いをほとんど消し去ってしまう。しかし、カセットテープは違う。繰り返し再生されるたびに磁性体は少しずつ摩耗し、微細なノイズが染み込み、時間は物質の表面に痕跡を刻みつけていく。 媒体は情報を保存すると同時に、自らも時間を引き受ける。同じ声であっても、初めて聴いたときと数年後に聴き返したときとで受ける印象が異なるのはそのためでもある。深化するユニバース 清水監督がカセットテープを選んだ理由も、おそらくそこにあるのではないだろうか。過去は現在から離れることなく、記憶は記録を通して物質性を帯びる。呪いはデータのように転送されるのではない。時間を通過しても消えることなく、痕跡として残る。そして、その痕跡は時間を宿した媒体を通して現在へと侵入し続け、そこから恐怖が育っていく。 だから、この映画の恐怖は観客を驚かせる瞬間そのものよりも、一度見た場面をもう一度見つめ直させる瞬間に宿っている。「だぁれかさんとアソぼ?」©2026「だぁれかさんとアソぼ?」製作委員会 振り返ってみれば、清水監督の映画は常に呪いそのものよりも、呪いがいかに時間を越えていくのかというあり方に関心を寄せてきた。今回、その関心はカセットテープという古い記録媒体と出合うことで、新たな形を獲得した。 「だぁれかさんとアソぼ?」は、「さな・ユニバース」を拡張する作品というよりも、その世界を読み直す作品と言ったほうが近い。 今日、多くのフランチャイズ映画が世界をより広げることに力を注いでいるのに対し、清水監督はすでに手にしている世界をさらに深く掘り下げていく。拡張ではなく深化である。記憶が持続させる恐怖 そう考えてみると、冒頭の問いもまた少し違った姿で戻ってくる。 なぜ、再びさなだったのか。なぜ一度完結させた世界をあえてもう一度開いたのだろうか。なぜカセットテープなのか。「だぁれかさんとアソぼ?」©2026「だぁれかさんとアソぼ?」製作委員会 「だぁれかさんとアソぼ?」は、見慣れた世界を通して、時間はいかに記憶を生み出し、記憶はいかに恐怖を持続させるのかをあらためて問い直しているのである。新たな怪物を生み出す代わりに、長く親しまれてきた世界に、終わることのない問いをあらためて取り出してみせる。繰り返されるのは設定ではなく、思考なのだ。 劇場を出たあと、長く心に残るのは怨霊の顔ではない。最初はただの小道具にすぎないように見えた一本の古びたカセットテープが、時間の経過とともに少しずつ異なる意味を帯びていく。記憶の器から呪いの媒介へ。記録装置から時間を宿した映画言語へ。そして、その変化は再び清水崇という作家へと収れんしていく。 寝苦しい夜が続く、この夏。Jホラーというジャンルがいまなお持ち続ける底力を確かめたいのなら、できるだけ遅い時間の上映を選び、劇場へ足を運んでほしい。そこでは、一本の古びたカセットテープが、あなたの記憶にも静かに入り込んでくるはずだ。(洪相鉉)