「南洋の楽園」に渡った日本人 パラオ高等女学校、激動の4年

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ストーリー 井川加菜美毎日新聞 2026/8/2 13:00(最終更新 8/2 13:00) 有料記事 1759文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷かつて日本が委任統治下に置いたパラオの元移住者たちが集う「沖縄パラオ友の会」で言葉を交わす玉城栄子さん(左)と前田裕子さん(右)。2人はパラオにあった第123兵站病院で看護業務に従事していた=那覇市で2026年5月8日、喜屋武真之介撮影 雨が降る前の独特な青臭さが鼻腔(びこう)をかすめる。5月上旬、那覇市。一足早く梅雨入りし、肌にまとわりつく湿気とともに、どこか南洋のジャングルを思い出させた。 「お元気そうで良かったね」。繁華街から少し離れたホテルのレストランで前田裕子さん(97)=那覇市=が声をかけると、玉城栄子さん(96)=同=は「元気です」とほほ笑んだ。 2人は太平洋に浮かぶ島国・パラオにかつて存在した「パラオ高等女学校」の同窓生だ。この日は元移住者らで作る「沖縄パラオ友の会」の会合で10人ほどが集まっていた。全2回の前編です。後編へのリンクは文末に日本人が次々と。にぎやかな市街 東京から南に約3000キロ、鹿児島県の屋久島とほぼ同じ面積(488平方キロ)の小さな島国を日本は第一次世界大戦後、委任統治下に置いた。 1922(大正11)年には中核都市コロールに「南洋庁」を設置。ミクロネシア(南洋群島)の政治・経済の中心地だったパラオは、透き通るような青い海と温暖な気候から「南洋の楽園」と呼ばれ、多くの人が海を渡った。特に突出していたのは沖縄出身者だ。 玉城さんは昭和初めの30年代中ごろ、4歳の頃にフィリピンから移住した。一家はコロールに洋裁店を構え、明るくて人当たりの良い母親は仕立てた洋服を着ては近くの料亭に出向き、働く女性たちからよく注文を取った。家族総出で生計を立て、古里の沖縄に送金したという。 前田さんは40(昭和15)年、家族とともに汽車と船を乗り継ぎ1週間以上をかけてパラオの地を踏んだ。「こんなににぎやかな場所があるのか」。山と海に囲まれ、漁業に従事する人が多い古里とは違い、病院や学校、商店などが建ち並ぶコロールの市街に驚いた。 日本人移住者の増加に伴い、コロール島や周辺の島々でも尋常小学校が相次いで作られた。そうした中で41年にコロールに開校したのがパラオ高女だった。4年制で、教育課程や授業時間数などは国内の高等女学校と同様とされた。女学校での生活 手を膝に置き、半袖のブラウス姿で写真に納まる約60人の1期生…この記事は有料記事です。残り898文字(全文1759文字)後編につづく 「小さな看護婦さん」たちが81年前のジャングルに残したものあわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>