「小さな看護婦さん」たちが81年前のジャングルに残したもの

Wait 5 sec.

ストーリー 井川加菜美毎日新聞 2026/8/2 13:01(最終更新 8/2 13:01) 有料記事 3364文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷パラオ高等女学校の1期生が並ぶ集合写真=2025年4月9日、井川加菜美撮影 太平洋戦争のさなか、パラオ・バベルダオブ島のうっそうとした密林に建てられた日本軍の「第123兵站(へいたん)病院」。ヤシの葉を屋根にした木製の簡素な造りで、患者は床の上に寝かされていた。 医薬品も不足する野戦病院で、パラオ高等女学校の女学生たちは指導を受けながら負傷兵たちの看護を始めた。全2回の後編です。前編はこちら 「南洋の楽園」に渡った日本人 パラオ高等女学校、激動の4年野戦病院の現実 「小さな看護婦さん」。2年の玉城栄子さん(96)は担当する重症病棟でそう呼ばれた。患者は自力では歩けず、排せつ物の処理が主な仕事だった。患者が亡くなると担架に乗せ、石が多いジャングルの中を2人1組で運んだ。 「運んでいると、どうしても頭が重くて下がってしまうのね。そうすると、頭が石にコッツン、コッツンと当たってしまう。何とか運んで、たこつぼのような穴にコロンと入れる。それが亡くなられた兵隊さんの終わり。今思い返すとかわいそうで……」 3年の前田裕子さん(97)は内科第2病棟を担当した。「皆痩せてガリガリ。注射をする時は皮膚を引っ張り上げて打つの」。死亡した患者を運ぶ担架に出くわすと敬礼して見送った。 「この後どうされますの?」。最高学年4年の仲井間千代さん(99)は、遺体を運んだ際、兵士に尋ねたことがある。 「夜になればのこぎりで手首を切って手だけ焼く」。煙で敵機に気づかれるため、昼間は火葬できない。手だけなら朝までには煙が出なくなるのだという。 遺骨の一部だけでも家族の元に返すためだった。遺体が埋められた場所には名前だけが書かれた墓標が並び、そばには蓋(ふた)のついたかまどがあった。食料事情悪化、戦況も変化 国立公文書館(東京都千代田区)には、第123兵站病院の「還送患者名簿」が保管されている。病に侵されながらも終戦を迎え、日本本土に送られた患者たちの記録だ。 ほとんどの患者の病名は「脚気(かっけ)」と記されていた。ビタミンB1の欠乏で起きる疾患で、食料不足のため極度の栄養失調状態に陥っていたとみられる。 1944年3月のコロール大空襲で市街地が大きな被害を受けて以降、食料事情は急速に悪くなった。 同年7月、マリアナ諸島のサイパンが陥落。パラオも9月にはバベルダオブ島から南にわずか50キロほどのペリリュー島、そしてアンガウル島に米軍が上陸した。 空襲が激しさを増す一方、パラオの島々にいた多くの日本の兵士や民間人は置き去りにされたまま、その後の戦局はフィリピン・レイテ島などへと移っていった。卒業の年に終戦し、その後 女学生たちが兵站病院に動員されて半年が過ぎた45年3月、パラオ高女初の卒業式が病院内でささやかに行われた。 下級生が見守る中、1人ずつ4年生の名前が呼ばれ、卒業証書が手渡された。その中には仲井間さんの姿もあった。 40代半ばの父親は軍に徴用されており、仲井間さんはまだ食べ物がある病院に卒業後も残るつもりだった。 しかしその翌日、顔見知りの兵隊が迎えに来た。父親に「卒業したら娘をもらってほしい」と頼まれたのだという。 男性は当時33歳。東京に妻子を残してきていた。父親は深刻な食料不足の…この記事は有料記事です。残り2049文字(全文3364文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>