「脱右翼」鈴木邦男さんが模索、人間らしく生きられる社会とは

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毎日新聞 2026/10/3 11:00(最終更新 10/3 11:00) 有料記事 2905文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷鈴木邦男さん=中村琢磨撮影 「新右翼」と呼ばれていた鈴木邦男さんが1993年に出版した「脱右翼宣言」は、古くて新しい本である。右翼思想を捨てて左翼に転向したわけではない。冷戦終結で「反共右翼」は存在理由の大部分が失われた。なのに「左翼/右翼」という従来の区分に閉じこもったままでよいのか。左右の座標軸が変わったのだから、古い「型」から自由になって、一から考え直してみよう、という趣旨だった。街宣ではなく議論しよう 鈴木さんが設立した民族派団体「一水会」は、かつて戦闘的な右翼と見られていた時期があった。しかし、私が知り合った90年代初頭の時点で、鈴木さんは既に「テロを支持しない」と明確に述べていた。 著書や雑誌連載で「街宣や威圧ではなく公開討論で議論しよう」と呼びかけ、テレビ朝日の討論番組「朝まで生テレビ!」では、とつとつと持論を語った。「言論の場が与えられていないから実力行使するという理屈は、言論の場がある以上は通用しないんじゃないですか」と。 一緒に東京ドームに行った。幸福の科学の「エル・カンターレ生誕祭」。大川隆法総裁がステージに登場すると、整然と待機していた信者5万人が一斉に歓声を上げる。「すごい動員力だなあ。僕らが駅前で一生懸命に訴えても、せいぜい100人なのに」と驚く鈴木さん。イベントが終了し、会場出口近くで長身の男性が話しかけてきた。「なんだか学芸会みたいだったでしょう」。幸福の科学の熱心な会員、作家の景山民夫さんだった。派手な演出が照れくさかったのかもしれない。鈴木さんは「いやいや、お祭りらしい盛り上がりでしたよ」と、にこにこして応えた。 その夜、近くの店でギョーザを食べながら、鈴木さんは真顔で言った。「あの熱量がどこから生まれたのか、僕たちも学ばないといけない」。政治運動をするからには、多くの人の心に届く言葉が不可欠と考えていたのだ。 当時の「朝まで生テレビ!」は、実際に朝まで生放送していた。本番が終わると、出演者らがテレビ朝日の社員食堂でビールを飲むのが恒例だった。大島渚さんが激論相手に「もうちょっと大きな声で言わなくちゃ」と助言したり、ろれつが怪しくなってきた野坂昭如さんが論敵に「次はアメリカの問題を徹底的にやろうよ」と宣戦布告したり。 鈴木さんはほとんど酒を飲まずに、静かに、しかし楽しそうに耳を傾けていた。社会について語るなら、もっともっと社会や人を知る必要がある--。そんな態度に見えた。人は右翼というけれど キリスト教系の高校を卒業して、大学進学で仙台から上京した鈴木さんは、宗教団体「生長の家」の学生寮に入る。信者だった母親に勧められたからだ。60年代は左翼運動の最盛期。鈴木さんは生長の家を中心に右派・民族派の学生を集めて「全国学生自治体連絡協議会」を結成し、初代委員長に就任した。左翼学生と闘うためだった。 その時代、敵方にいたのが椎野礼仁さん(77)。レーニンという本名の通り、共産主義者同盟戦旗派に所属していた。ところが、晩年の鈴木さんを公私ともに支えることになる。編集者として鈴木さんの本を5冊つくった礼仁さんは仲間とともに、パーキンソン病で体が弱った鈴木さんに同行し、映画館や美術館、トークイベントに出かけ、取材にも同席してきた。 「僕らは冗談でよく言ってたんですよ。今、日本で一番リベラルなのは…この記事は有料記事です。残り1535文字(全文2905文字)Google検索で「毎日新聞」の記事を優先的に表示できます。関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>