毎日新聞 2026/6/6 08:15(最終更新 6/6 08:15) 有料記事 1480文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷犬目宿兵助が島四国巡拝で最初に訪れたと記した第52番札所「西蓮寺」=愛媛県今治市で2026年5月28日、松倉展人撮影 捕まれば死罪。逃亡中の一揆指導者が巡礼姿で受けたもてなしは――。江戸後期の大規模一揆「甲州一揆」を率いた「犬目宿兵助(いぬめじゅくひょうすけ)」は一揆後に北信越、中四国、近畿と各地を逃走中、詳細な日記を残した。巡礼者をもてなすと功徳があると信じる村人側は日々、「善根(ぜんこん)」で宿泊を施し、兵助は特技で返礼した。愛媛県今治市村上海賊ミュージアムの松花菜摘学芸員は「もてなしの四国遍路文化」の側面から逃亡日記に注目している。 ミュージアムがある今治市・大島には四国八十八カ所を模した「写し霊場」、いわばミニ八十八カ所の「島四国」(行程約63キロ)がある。松花さんは1807(文化4)年の島四国開創からの歩みを愛媛大学四国遍路・世界の巡礼研究センターの研究紀要に報告した。兵助が島四国を訪ねたのは開創30年を迎えた時期であり、巡拝者受け入れの文化が日記にも見てとれるという。家族の夢も…日記につづった逃亡の日々 餓死者が多数出る天保の大飢饉(ききん)に端を発した1836(天保7)年の甲州一揆は数万人もの暴動に発展したという大事件。翌年の大塩平八郎の乱にも影響を与えたとされる。頭取(指導者)の一人となった犬目宿(犬目村、現在の山梨県上野原市犬目)の兵助は当時40歳。あらかじめ妻への離縁状を書き、一揆後は1年以上、各地で逃亡を続けた。出発直後に「御札箱」「杖(つえ)」を買い求めており、巡礼姿だったことがうかがえる。 逃亡して8カ月がたった1837(天保8)年4月2日、兵助は今治城下から船で大島に渡り、同15日まで大島に滞在した。その13泊14日のうち、宿がなかったため氏神をまつる神社に1泊した以外の12泊は日記に「せんごん」「善ごん」などと記し、民家に無料で宿泊する「善根宿(ぜんこんやど)」を利用したようだ。民家は「宗次」「植次郎」「弥助」「文治」「力蔵」宅など10カ所。島四国八十八カ所を参…この記事は有料記事です。残り678文字(全文1480文字)あわせて読みたいAdvertisement1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>