ヘボン邸宅があったのは、現在の「山手資料館」の裏手あたり。この一帯が外国人居留地だった。右手には外国人墓地が広がる。資料館は1909(明治42)年の建造で、入館無料。明治期の山手地区の様子が紹介されている。明治期の山手地区の様子が紹介されている=横浜市で2026年5月2日、森忠彦撮影 1878(明治11)年5月に来日したイザベラ・バードは、入国直後の手続きを済ませた後、しばらく横浜を拠点に、これから始まる長い旅行の準備に取り掛かった。当時、横浜には何人かの英米人が在住しており、そのうち彼女が頼ったのが、のちに「ヘボン式ローマ字」を生み出したことで知られる米国人宣教医、ヘボン博士(Dr. Hepburn)だった。 ヘボンは幕末だった1859年に宣教医として来日し、62年の「生麦事件」では、負傷者の治療にあたった。63年には横浜の居留地で私塾を開き、これはのちに明治学院やフェリス女学院の源流となる。67年には日本で最初の和英辞典を編纂(へんさん)するなど、当時、横浜に住んでいた英米人の中では最も日本通だった人物の一人である。 このころのヘボン邸は、現在は横浜外国人墓地がある山の手の高台にあり、バードはここに1週間ほど滞在した。バードはまず旅行の計画をヘボンに相談した。相談相手としては最適のはずだったが、ヘボンは反対したようで、バードもそこは少し不満を漏らしている。「Unbeaten Tracks in Japan」を見てみよう。As no English lady has yet travelled alone through the interior, my project excites a very friendly interest among my friends, and I receive much warning and dissuasion, and a little encouragement. The strongest, because the most intelligent, dissuasion comes from Dr. Hepburn, who thinks that I ought not to undertake the journey, and that I shall never get through to the Tsugaru Strait. If I accepted much of the advice given to me, as to taking tinned meats and soups, claret, and a Japanese maid, I should need a train of at least six pack-horses! バードの旅は基本、一人旅である。極力、不要な荷物は減らして、旅先で賄うスタイルであり、そこはヘボンの忠告にさえ、聞く耳を持たなかった。とはいえ、最低限の「通訳兼助手」は不可欠で、有能な人材を探すことが最初の大きな作業となった。 当時、日本で外国人と細かな意思疎通ができるほど英語が話せるような人材は極めて限られていた。ただ、横浜や神戸であれば、何らかの経験があり、かつ長い旅行の従者となりうる若い人材はいるはずだった。以下、採用に至るまでの経緯を見てみよう。…【前の記事】/2 「本当の日本」への入り口 バードが見た開港地・横浜