上野東京ライン構想もすでにあった!? 戦前の「鉄道改良計画」は実現したのか? 東京圏の戦後をズバリ予測!?

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2025.08.04枝久保達也(鉄道ライター・都市交通史研究家)tags: 上野東京ライン, 中央本線, 京浜東北線, 山手線, 東京都, 歴史, 鉄道路線戦前に「大東京の省線電車の沿革と將來の改良計畫」と題された論文が発表されました。鉄道黄金時代の当時に描かれた鉄道の未来像とは、どのようなものだったのでしょうか。 現在の東京圏鉄道ネットワークは1930年代に概成しました。地下鉄や京葉線、総武快速線など戦後に整備された路線も多くありますが、JRと私鉄の主要路線の多くは大正末から昭和戦前期にかけて整備されたものです。拡大画像JR中央線の三鷹までの複々線区間は、中央・総武線各駅停車と中央線快速が並走する(画像:写真AC) そのような戦前の鉄道黄金時代の絶頂期だった1937(昭和12)年4月に発行された雑誌に、鉄道省工務局鉄道技師が「大東京の省線電車の沿革と將來の改良計畫」と題する論文を投稿しています。しかし同年7月に勃発した日中戦争以降、日本は戦時体制に突入したことで、都市鉄道の大規模改良は停滞の時代を迎えます。 当時の構想は一部が戦後に持ち越されて実現しましたが、実現せずに計画が変更され、陽の目を見なかったものも多くあります。当時の構想と現実を比べながら見ていきましょう。 鉄道網と人口は両輪の関係で拡大していきます。東京市では大正中期以降、鉄道沿線を中心に郊外化が進んだ結果、通勤圏は都心10km圏から20km、30kmへと拡大していきます。面的に拡大する輸送需要に対応すべく、鉄道省は都心20~30km圏の電化や複線化、複々線化などを計画しました。 やや後の時代ですが、1940(昭和15)年の時刻表を開いてみると、山手線は最短4分間隔で、1周の所要時間は現在とほぼ同じ約1時間5分程度です。中央線は急行電車(快速線)が東京~中野間で4分間隔、所要時間は約20分で、こちらも現在とほぼ同等です。なお、編成両数は山手線が最大7両、中央線が5両でした。 明治末期から電車運転を行っていた中央線・山手線、大正時代に開業した京浜線に続き、1932(昭和7)年に東北線が大宮まで電化して現在の京浜東北線が成立。続いて1935(昭和10)年までに総武線が千葉まで、1936(昭和11)年に常磐線が松戸まで電化されました。 前掲の論文が最初に指摘していた課題が、中央線の輸送力増強です。1937(昭和12)年3月時点で中央線の複線区間は立川まで。そして立川以西の単線区間では1日120往復の列車を運転していたことから、浅川(現・高尾)までの複線化工事を進めていました。 輸送力が逼迫していた都心区間では、1933(昭和8)年に東京~中野間を複々線化し、ラッシュ時に急行電車(現在の快速)の運行を開始しました。 論文では、地下鉄の新宿延伸が実現すれば沿線は一層発展し、さらなる利用者の増加が予想されることから、将来的に中野~吉祥寺間の複々線化が必要と述べています。これは戦後、通勤五方面作戦の第一段階として進められ、1969(昭和44)年までに中野~吉祥寺~三鷹間の複々線化が完了しました。【次ページ】「上野東京ライン構想」もあった【図】戦前に計画された東京発着「急行線」のその後