北九州と大分を結ぶ「中津街道」 小倉城下に今も残る起点

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毎日新聞 2025/10/2 13:08(最終更新 10/2 13:08) 985文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷中津街道の起点、常盤橋=北九州市小倉北区室町で2025年6月16日午後0時43分、松本昌樹撮影 1802(享和2)年4月、一人の旅人が現在の北九州市小倉北区室町に架かる常盤橋のたもとに立ち、南西約400メートル先にそびえる小倉城天守閣を見上げていた。旅人の名は菱屋平七。尾張国(愛知県)の呉服問屋のご隠居だ。息子に家業を譲っての悠々自適の旅だった。 平七は中津街道を歩いた記録を旅日記「筑紫紀行」として書き残し、当時の街道を知る貴重な資料になっている。常盤橋から天守閣を見上げた印象を、「ここは九州の咽喉(いんこう)(のど)なり。天守高々と見ゆ。いと賑(にぎ)はしき城下なり」と記されている。現在、同じ場所から見上げても、ビルに遮られ天守を望むことはできない。Advertisement 平七もたどった旧街道を歩き始めよう。案内をお願いした小野剛史さんによると、当時の小倉城は、熊本城の2倍にも及ぶ壮大な城構えを誇った。初代藩主、細川忠興は城の東側の外堀(現在の砂津川)に橋を架けて「中津口」=毎日新聞西部本社の南約100メートル=とし、その内側に中津口門を造った。城下にあった門司口、香春口など10カ所の門(口)の一つで、終点の中津城下への入り口には「小倉口」の名が残る。和気清麻呂が足を浸し傷を癒やしたとされる、水神社境内にある池=北九州市小倉南区湯川で2025年6月16日午後1時23分、松本昌樹撮影 足立山を正面に見ながら宇佐町、黒原と進む。国道10号湯川交差点からは、足立山麓(さんろく)に広がる住宅街の中を、旧街道が当時と同じ3メートルほどの道幅で真っすぐ東に延びている。 この地には、奈良時代の貴族、和気清麻呂にまつわる伝説が残る。皇位継承を企てた怪僧・弓削道鏡の怒りを買い足を切られた清麻呂が、イノシシに導かれ霊泉につかると数日で傷が治った。これが「足立山」や「湯川」の地名の由来とされ、水神社(小倉南区湯川)には、清麻呂が足を癒やしたとされる池が、葛原八幡神社(同葛原)の境内には、狛犬(こまいぬ)ならぬ「狛猪(い)」がある。  葛原から下曽根へ。現在のJR下曽根駅北側を流れる竹馬川に唐戸橋が架けられて交通の要衝となり、付近は宿場町として栄えた。南下してJR朽網駅付近を過ぎると、北九州市と苅田町の境界となる小丘陵、狸山峠だ。 平七が日記に「(曽根の塩浜から)廿(にじゅう)四五丁行けばたぬき山に至る。三丁計行て郡境の印の石立り。従是(これより)西企救郡 従是東京都郡とあり」と記した通り、その文字が刻まれた高さ約2メートルの「郡境石」の標柱が、雑草に覆われた街道跡にひっそりと立っている。【松本昌樹】あわせて読みたいAdvertisement現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>