「敵性外国人」でも民主主義を 16歳が“米国の画家”になるまで

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毎日新聞 2025/8/10 09:00(最終更新 8/10 09:00) 有料記事 2989文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷アトリエで制作中の国吉康雄(1943年、福武コレクション) サーカスの跡地だろうか。灰色の空を背景に、逆さまに据えられた回転木馬。地面にはたたまれたテントのような布と、寝っ転がる人々が見える。 太平洋戦争が終結して2年、「祭りは終わった」と題した作品を描いたのは、画家・国吉康雄(1889~1953年)。1900年代に労働移民として渡米し、戦時下には「敵性外国人」というレッテルに苦しみながらも「アメリカの画家」として成功を収めた。 兵庫県立美術館(神戸市)で開催中の特別展「藤田嗣治×国吉康雄 二人のパラレル・キャリア――百年目の再会」(17日まで)は、同時代に日仏で活躍した藤田嗣治(1886~1968年)の作品を相対させ、国内であまり知られていない国吉の画業と生涯に光を当てる。 世界が内向きになりつつある現代。自由と民主主義を信じ、人種を超えて自らの道をつかみ取った一人の画家の人生は、混迷の時代を生きる私たちに示唆を与えてくれる。公立校の教師に画才見いだされ 「藤田は日本人画家であってフランスを代表する画家ではないが、国吉はアメリカを代表する画家となった」 7月に同館で開かれたシンポジウムで、大原美術館(岡山県倉敷市)の三浦篤館長は、そう指摘した。同時代に共に海外で名声を築いた2人。三浦館長の発言は画家としての在り方についての言及だが、生き方もまた対照的だった。 藤田は陸軍軍医の息子として生まれ、東京美術学校(現・東京芸術大)で学んだ後、26歳でフランスに留学。乳白色の肌の裸婦像で人気を博す。40年に帰国し、太平洋戦争中は軍の要請で「作戦記録画」を制作した。戦後は追われるように日本を離れ、フランス人として亡くなった。 一方の国吉は地元・岡山の工業学校を中退し、わずか16歳で単身渡米。美術を学んだのはアメリカに渡ってからのことだ。 当初は言葉もできず、肉体労働で生活費を稼いだ。働きながら通ったロサンゼルスの公立学校で、教師に絵を認められたことがきっかけとなり美術学校へ。その後、ニューヨークに移り頭角を現していく。 新進画家として注目を集め始めた頃の1点が特別展にもある。ニューヨークで25年に開いた個展への出展作「幸福の島」(24年)。画面中央に横たわる裸婦は性的でありながら子宮内の胎児を想起させ、国吉独自の官能表現の到達点とされる。欧州への滞在を経て創作プロセスを転換し、29年にはニューヨーク近代美術館の「19人の現存アメリカ人による絵画展」に選出された。アメリカでの評価を確立した。画家唯一の「帰国」で感じたこと この頃、アメリカでは既に排日移民法が成立。アジア系移民への風当たりが強まる中、国吉はあらがうように…この記事は有料記事です。残り1895文字(全文2989文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>