名付け親の船長は たどり着いた「答え」、浮かんだ涙の理由

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毎日新聞 2025/8/27 07:01(最終更新 8/27 07:01) 有料記事 3126文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷戦後に一家が暮らしたバラックがあった場所を指さす佐藤寿郎さん=北海道根室市で2025年6月12日午後5時16分、森原彩子撮影 1947年9月22日の昼。その日は晴天だった。 南樺太(からふと)・真岡(まおか)(現ロシア・ホルムスク)の港で、択捉(えとろふ)島に住んでいた佐藤八重さん(当時28歳)が、収容所から北海道の函館港に向かう日本船「徳寿(とくじゅ)丸」に歩みを進めた。 家財道具を詰め込んだリュックを背負った八重さんは出産間近。3歳の娘の手を引き、船の甲板に足をかけた直後だった。「おなかが痛い」。陣痛を訴え、船内の薄暗い通路の先にある医務室に運ばれた。 「生まれた! 男の子だ!」。夜になり、日付が変わる前、船室に声が響いた。小さな未熟児だった。 生まれた男の子の名前は「寿郎(じゅろう)」。船長が船名から「寿」の文字を授けた。 北方領土からの引き揚げ船の乗船名簿に「出生」の文字がありました。約80年前、船内で生まれた赤ん坊は、どのような人生を歩んだのでしょうか――。前編 船内で生まれた男性 80年後にあふれ出した「知りたい」後編 名付け親の船長は たどり着いた「答え」、浮かんだ涙の理由自然豊かな北方四島 佐藤家が暮らした択捉島を含む北方四島。江戸幕府が開発に乗り出したと伝わる。 明治期には北海道根室市や富山県から漁民が移住し、サケやコンブ漁が盛んになった。豊かな自然と資源に恵まれ、元島民は「戦時中も食べ物に困らなかった」と言う。四島の人口は最盛期に約1万8000人に達し、小学校や診療所などの生活基盤も整った。 日本がポツダム宣言を受諾した後の45年8月28日、ソ連軍が択捉島に上陸し、四島を占領。島ではソ連軍による島民の住宅を対象にした強奪事件も発生した。一方、元島民が「怖い思いはしなかった」「チョコやキャラメルをもらい、ロシア語も教わった」と言うように、ロシア人との交流も育まれた。 それも長くは続かず、元島民はソ連に樺太の収容所に強制退去させられ、47~48年に船で函館に引き揚げた。自力で島を脱出した島民も、劣悪な環境の収容所で亡くなった人もいた。 一般的な終戦は45年8月15日だ。しかし元島民にとっての「終戦」は、2年以上たった後のことだった。 四島は現在もロシアが実効支配している。元島民らは、今年見つかった乗船名簿を見て何を思うのか。記者は根室へ 今年5月26日、札幌市で元島民らに名簿が公開された。…この記事は有料記事です。残り2168文字(全文3126文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>