24色のペン毎日新聞 2026/2/24 06:00(最終更新 2/24 06:00) 有料記事 1686文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷放射性物質の測定器類の前に座る今中哲二さん=大阪府熊取町の京都大複合原子力科学研究所(旧原子炉実験所)で2026年2月4日、大島秀利撮影 大学の研究炉として国内最大だった京都大複合原子力科学研究所(大阪府熊取町)の研究用原子炉「KUR」(熱出力5000キロワット)が今年4月いっぱいで運転を終える。老朽化や使用済み核燃料の処分の問題が理由だ。同研究所は旧名を「京都大原子炉実験所」と言い、原発の危険性を訴え続けた研究者グループ「熊取6人組」の存在も注目されてきた。その最後の在籍者だった今中哲二研究員(75)も3月末に同研究所を後にする。 6人組には小林圭二・元講師(故人)や小出裕章・元助教(76)らがいて、1970年代から原発の危険性を訴えてきた。今中さんは広島市出身。助教だった10年前に定年退職していたが、その後も非常勤で残り、研究を続けてきた。どんな活動をしてきたのか。 1986年、旧ソ連・ウクライナのチョルノービリ(チェルノブイリ)原発で世界最悪の原発事故が起こった。放射性物質の汚染で、200キロ以上離れた場所にも立ち入り禁止地帯ができた。今中さんは現地を何度も訪れた。ロシア語が堪能だったことを生かし、ウクライナやベラルーシの研究者と交流しながら、実態を調査して報告した。 原発の潜在的な危険性が顕在化した事態だった。ところが、日本の政府など原発を推進する人たちはまるで人ごとのようで、深刻に受け止めている様子には見えなかった。 2011年3月、東京電力福島第1原発事故で炉心溶融(メルトダウン)が起きて放射性物質が飛び散った。「チェルノブイリ級の事故が日本で現実になった」と今中さんはあぜんとした。と同時に「何が起きているのか記録し、伝えるのが私の役目」という使命感に駆られたという。3月中には、福島県で独自に放射性物質を測定して回った。 特に「日本で最も美しい村」連合に加盟していた飯舘村の実態調査に力を入れた。福島原発の北西30~45キロにありながら、事故直後の風向きの影響で放射性物質の汚染が激しかった。全村の避難指示は、発生から1カ月後と大幅に遅れた。 事故から5年が経過した16年3月、今中さんは京大原子炉実験所の6人組では最後の定年退職を迎えたが、「福島とのかかわりの中で研究を続けたい」という思いが強かった。独自に国の科学研究費補助金(科研費)などの研究費を確保していたこともあり、非常勤の研究員として再雇用された。 実験所に居場所を確保したのには意味があった。そこには、…この記事は有料記事です。残り701文字(全文1686文字)【前の記事】認知症の人にやさしい小さな本棚=銭場裕司関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>