「硫黄島からの手紙」 向き合った家族の歴史ストーリー 栗原俊雄毎日新聞 2026/4/5 14:00(最終更新 4/5 14:00) 有料記事 2138文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷摺鉢山(手前)側から眺めた硫黄島の全景。海上自衛隊の基地があり、観光客などの立ち入りは認められていない=東京都小笠原村で2023年10月30日、本社機「希望」から手塚耕一郎撮影 毎年8月、多くのメディアが大日本帝国の戦争を振り返って報道をする。 私は20年以上、戦争報道を一年中してきた。珍しいせいか、さまざまな情報提供がある。 例えば、81年前の3月26日に組織的戦闘が終わった太平洋戦争末期の激戦地・硫黄島(東京都小笠原村)に関するものだ。 2025年3月、本社の愛読者センターを通じて、京都府宇治市の佐々木寛子さんから取材依頼があった。 硫黄島で戦死した父の巍(たかし)さんが島から出したはがきがあるという。私が硫黄島の記事をたびたび書いていたことから、「詳しいことをお伝えできれば」と声をかけてくれた。 京都支局の日高沙妃、太田裕之両記者とともに、宇治市の自宅を訪ねた。31歳で戦死した牧師 17通にこもる思い はがき16通と封書1通が残っていた。巍さんの妻、愛さん(10年に99歳で死去)が保管していた。 巍さんは1913年、東京生まれ。38年3月に青山学院大神学部を卒業し、出征前は横浜市の教会で牧師を務めていた。 44年6月9日、長女の寛子さんが誕生。巍さんに召集令状が届き30日、硫黄島に渡った。 母の登久子さんは、巍さんに寛子さんを抱かせて「こんなに小さな命を置いていくのだから、捕虜になってでも生きて帰ってきなさい」と言ったという。 はがきには、米粒より小さな字がびっしりと記されていた。限られた機会に、少しでも多くのことを伝えたいという気持ちがにじむ。 「(寛子さんが)病気もせずにすくすく育っていることを感謝しています」「約百日大分大きく可愛くなったね」 本土からの手紙も届いていたとみられる。 はがきを読み、私は31歳で亡くなった巍さんの心中を想像した。 牧師でありながら殺し合いの戦争に参加する気持ち。また夫、父としての、家族への思いだ。 米軍は45年2月19日に上陸し、日本軍守備隊との戦闘は3月26日まで、36日間続いた。日本軍守備隊およそ2万人が戦死した。 巍さんは、いずれかの段階で「生きては帰れない」と覚悟せざるを得なかったはずだ。 「自分が死んだら生まれたばかりの子どもや妻は、どうやって生きていくのか」 そんな不安にさいなまれていただろう。亡くなる5日前に載った記事 取材を受けるかどうか、寛子さんは迷ったという。「母が望んでいないのではないか」と思ったからだ。 愛さんは戦後、反戦運動に力を入…この記事は有料記事です。残り1158文字(全文2138文字)【前の記事】学者の孫、「政治的無人島化」を研究 沖縄からいずれ硫黄島へ関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>