毎日新聞 2026/3/29 11:15(最終更新 3/29 11:15) 1455文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷自ら運営する常陸太田市のイベントスペース「KujiraHill」で。後ろのクジラの絵は小学5年生のおいっ子の作品=2026年3月3日午後5時30分、松下英志撮影 一青窈さん(49)の詞と歌唱で長く愛され、平成時代に一番多くカラオケで歌われた名曲「ハナミズキ」は、意外にも発売3年前の2001年9月11日に起きた米同時多発テロを機に生まれた歌でした。それからちょうど四半世紀。作曲した茨城県常陸太田市出身のマシコタツロウさん(48)に、楽曲誕生までの物語をうかがいました。【松下英志】 ピアノを弾き始めたのは4、5歳です。母親が保育士で家にピアノがあって、公務員の父親も大学時代にジャズをやっていてベースギターもあり、小さい頃は楽器をオモチャ替わりにしていました。小学6年の時、ピアノの先生から「作曲用に」と勧められて母親がシンセサイザーを買ってくれて、それがゲーム機のように楽しかったですね。小学校の卒業文集に将来の夢を「作曲家」と書きました。Advertisement 中学からバンドを組み、地元のホールやデパートでのイベント、大学では楽器店主催のコンテストで全国大会まで行きました。大学卒業時には親と同じ公務員の試験を受けるよう言われましたが、音楽をやりたいから勉強に熱が入らず就職浪人に。ひたちなか市の大規模商業施設でアルバイトをしていた2000年夏、すごい歓声が聞こえたのです。初開催のロッキン(ロック・イン・ジャパン・フェスティバル)でした。 「あっち側の世界に行きたい」と居ても立ってもいられずバイトを辞めたその日、先輩が「音楽事務所を始める社長がいるから紹介するよ」と。本当かなと思いつつ連絡先を交換して東京に引っ越したら電話があり「今、○○駅近くで社長と飲んでいるから来いよ」と先輩が言うんです。それが偶然、引っ越し先の最寄り駅。行くと社長は「デビューさせたい女の子がいるから曲を書いてみろ」。その子が一青窈でした。米同時多発テロを機に生まれる それから社長に夕食をおごってもらうのが日課で。ある日、社長と居酒屋に入るとラジオからニューヨークのツインタワーに飛行機が突っ込んだというニュースが流れ、崩れたビルのがれきの中に人が落ちていくような場面をずっと話しているのです。すごくショックを受け下を向いていると社長にこう言われました。「お前は今そこに行って誰かの命を救うことはできないが、人の心を救うことはできる。不安な人たちの気持ちに寄り添う曲を書け。それが作曲家だ」。一青も電話で社長と話して「現地に友達がいる」とわんわん泣いていました。社長は、「タツロウにも言ったけど、お前も歌詞を書け。そこにぶつけろ」と。 数日後に曲と詞を持ち寄りました。以前は先に曲を書いて詞を付けていましたが、一青もあふれる思いがあるからスケッチブックの大きな紙3枚くらいにびっしり言葉を書いてきて。僕が曲を聞かせ、一青はメロディーに合わせるようにスケッチブックから言葉を抜粋していきました。作曲家としての僕と一青が「もらい泣き」でデビューした02年の前年に、ハナミズキは誕生していたのです。 その歌にはかなり重たい思いがあって。「果てない夢がちゃんと終わりますように」という歌詞がありますが、その夢というのは一青に言わせると「欲望」。みんなが無欲なら戦争は起きない、と。そうした思いを感じ取ってもらえているのが、あの曲の不思議さですね。マシコタツロウさん 本名・増子達郎。1978年3月1日生まれ。常陸太田市立佐都小と瑞竜中、県立日立北高を経て二松学舎大卒。隣の中学で一学年下の妻と1男2女。楽曲提供は嵐やEXILE、郷ひろみ、香西かおりなど多士済々。常陸太田大使やいばらき大使なども務める。あわせて読みたいAdvertisement1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>