「納得されるジャッジを」 審判歴39年ベテラン語る日本選手権の魅力

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毎日新聞 2025/11/8 07:00(最終更新 11/8 07:00) 1167文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷審判として社会人野球日本選手権を長年支えてきた橘公政さん=兵庫県淡路市のReFillスタジアムで2025年9月29日午前9時37分、中田博維撮影 審判歴は来年で40年になる。高校野球の春と夏の甲子園大会でも活躍した橘公政(きみのり)さん(67)が、社会人野球日本選手権に関わるようになったのは第17回大会(1990年)から。「グリーンスタジアム神戸(神戸市須磨区、現ほっともっとフィールド神戸)で、最初は外野審判だったんです」と懐かしそうに振り返る。研さん重ね 社会人野球では、高校野球とは違うスピード感に戸惑った。「スライディングしかり。アマ野球の最高峰ですからね」。失敗ももちろんしたが、レベルの高さに対応できるよう研さんを重ねた。Advertisement 例えばポジション。「遠く離れて見えていないような位置から判断されても、選手やチームは納得できないでしょう」。常に周囲から納得してもらえるジャッジを心がけてきた。 審判になったきっかけは、白球を追いかけていた兵庫県立芦屋高時代の野球部長から誘われたこと。芦屋市消防本部の消防士だった27歳のときだった。「昔の母校は強くて(1952年夏に)全国優勝もした。僕らは甲子園にこそ出られなかったが、そこそこ強かった。それから弱くなって卒業後も野球に携わる人がいなくなり……。それで審判をやらないかと言われて」阪神大震災を経験開幕前夜に行われた記念式典で表彰者を代表してあいさつをする審判の橘公政さん=大阪市中央区のホテル日航大阪で2025年10月27日午後7時25分、中田博維撮影 当時は救助隊員。訓練に明け暮れ、一度は断ったが救助隊から離れたことで審判の道へ。最初は選手目線で打球を追ってしまうなど戸惑ったが、次第に大きな試合を任されるようになった。 ただ審判はボランティア。仕事をやりくりしながら技量を磨いていくが、時には熱くなった監督や選手から責められることもあった。「こちらも怒ってしまうと怒りが返ってくる。まずは相手の話を聞くこと。相手も社会人である以上は威圧的な言葉はダメ。ボクも昔は短気だったんですけどね」 冷静に対応できるようになったのは消防の仕事が大きく関わっている。忘れられないのが1995年1月に起きた阪神大震災。最初の現場は6階建てのマンションだった。1階から出火し住民が閉じ込められていた。上からの指示も、救助に十分な装備もなかったが、仲間と計3人で短いはしごを使い6階までよじ登り1人ずつ順番に下ろした。煙に巻かれ命を落とした住民もいたが22人を救助した。「メンタルは鍛えられた。瞬時の判断が必要なのは審判も消防も同じ」という。功績たたえられ表彰 大会50回を記念し、長年運営に貢献したとして6団体とともに、開幕前日の10月27日に表彰された。今大会では審判副委員長を務める。ネット裏から後輩たちを見守ることが多いが、審判の希望者が少なく、今後は審判の良さを広くアピールしていきたいという。 審判の魅力とは何か。「選手と違って脚光を浴びることはないけれど、いないと試合が成り立たない。そんなところですかね」。大会はこんな人たちにしっかりと支えられている。【中田博維】【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>