「でもしか先生」がヒョウ柄着続ける覚悟 萎縮する社会の中で

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ストーリー 菅沼舞毎日新聞 2026/4/12 08:01(最終更新 4/12 08:01) 有料記事 3136文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷中学や大学での授業のほか、講演にも奔走する平井美津子さん。平和や慰安婦問題に関心を持ったきっかけを語る=大阪府四條畷市で2023年7月1日、菅沼舞撮影 ある生徒は答案用紙の裏に「美津子、がんばれ」と書いてくれた。肝心のテストの点数は0点だったが、その思いやりが心にしみた。「先生は間違ったことなんて、教えてへんやん」と直接声をかけてくれる保護者もいた。前編はこちら慰安婦歴史伝え続けて30年 「あらがう教師」と呼ばれて 教育を取り巻く環境は次第に萎縮していき、2000年代前半から徐々に教科書から「慰安婦」という言葉は消えた。生徒たちにその事実を伝えると、純粋に疑問をぶつけてくる。「何で無くすん?」。その姿を見て、平井美津子さん(65)は自分に誓った。「私は負けへん」。つらい体験をしながらも、勇気を出して語ってくれた人の声を歴史に埋もれさせたくない。そう強く思った。 授業への圧力はその後もくすぶり続けたが、平井さんはめげなかった。慰安婦の記述がある教科書とない教科書を比較したり、「戦地に行った女性がいる」という記述を手がかりにしたりして、授業を続けた。気が付けば、「あらがう教師」と呼ばれるようになっていた。ボディコンスーツでまとって 熱意があってパワフルという印象が強い平井さんだが、子どもの頃から教員を目指していたわけではない。 教員にでもなるか。教員にしかなれない――。そんな消極的な動機で就職した教員は高度経済成長期に「でもしか先生」と呼ばれたが、平井さんは「私も同じ」だと笑う。 大学では、日本の中世史を学んだ。就職活動の時期になって、女性の職業選択の幅の狭さに直面した。当時は男女雇用機会均等法はなく、女性は結婚したら家庭に入るのが当たり前の時代だった。 企業の女性採用はごくわずか。それも「自宅通勤に限る」などの条件付きだった。進路に迷う平井さんに教師の道を勧めたのは、教育実習先で再会したかつての恩師だった。「勉強はできへんけど、人の世話は好きやろ」。確かに困っている人がいると、ほうっておけない性格だった。 ただ子どもと接した経験が少なく、小学校教員はハードルが高く思えた。高校教員は進路指導が大変そう。消去法で中学教員を選んだ。 教員になってからは、ジャージー姿の先輩や同僚を横目に、ボディコンスーツに身を包んで授業をした。あるとき、新しく入学した男子生徒が話しかけてきた。「毎朝派手な女の人が通るなあと思ってたけど、先…この記事は有料記事です。残り2187文字(全文3136文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>