eye動画あり 佐藤賢二郎毎日新聞 2026/4/9 16:00(最終更新 4/9 16:00) 961文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷被爆体験を記録するビデオカメラに向かって証言する阿部静子さん=広島市南区で2026年1月29日、佐藤賢二郎撮影写真一覧 2月22日、ある被爆者が白寿(99歳)の誕生日を迎えた。広島市南区の阿部静子さん。18歳だった1945年8月6日、爆心地から約1・5キロで建物疎開の作業中に被爆し、熱線で顔や腕など、右半身に大やけどを負った。差別に苦しみながら、草創期から被爆者運動に参加。その礎を作った「生き証人」の一人だ。 「悲しみに苦しみに 笑いを遠く忘れた 被災者の上に 午前十時の陽射しのような 暖かい手を 生きていてよかったと 思いつづけられるように」Advertisement日本被団協の田中聡司代表理事と握手した阿部静子さんの右手(右)には、被爆時のやけどの痕が残っていた=広島市南区で2026年1月29日、佐藤賢二郎撮影写真一覧 1月下旬、入居する高齢者施設の一室にかすれた歌声が響いた。70年前の56年春、被爆者救済を求める国会での請願行動を終え、広島に戻る列車内で阿部さんが作った詩。被爆体験を聞き取りに訪れた日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)代表理事、田中聡司さん(82)の求めに応じて披露した。 「(国会請願)当時の道路は未舗装で冬には霜柱が立っていた。それが10時ごろ、じわっと溶ける。一番暖かい午後の日差しじゃなくてもいい。せめて午前10時の日差しのような手を差し伸べてほしい。あの時の心からの願いでした」と詩を作った時の心境を振り返る。女学校時代の阿部静子さん=本人提供写真一覧 同じ年の8月、日本被団協が結成され、長崎市での第2回原水禁世界大会ではこの詩が歌われた。国会請願に参加した広島と長崎の被爆者計43人のうち、存命は阿部さんだけだ。 「惨めな、見苦しい姿で生きてきました」と振り返る。焼けた顔の皮膚が赤くなり、近所の子どもたちから「赤鬼」とはやし立てられた。傷が見えないよう隠れて暮らす毎日だった。 しかし、「原爆1号」と呼ばれた吉川清さんとの出会いなどを契機に被爆者運動に参加。修学旅行生らに過酷な体験を語り、メディアの取材にも応じた。「原爆が三度繰り返されることがあっては絶対にならない」との思いからだ。「核兵器は絶対に廃絶してほしい。被爆者としての遺言です」と力を込める。99歳の誕生日を迎え、白い頭巾とちゃんちゃんこ姿で高齢者施設の誕生日会に参加した阿部静子さん(中央)。カラオケ大会で「愛」がテーマの曲を歌い終えた女性(右)とその夫に笑顔で拍手を送った=広島市南区で2026年2月22日、佐藤賢二郎撮影写真一覧 「私ははぶて顔(中国地方の方言で「不機嫌そうな顔」)だから」。撮影のたび、阿部さんは申し訳なさそうに口にした。 誕生日には、2月生まれの入居者の誕生日会が施設で開かれた。「この日を迎えたのも皆さんのご支援のおかげです」。感謝の言葉を述べ、会の終了後、エレベーター前で握手して出席者を見送った。決して「不機嫌」ではない、特上の笑顔だった。【佐藤賢二郎】【前の記事】震災がきっかけで生まれたつながり 東北の小さな朝鮮学校関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>