毎日新聞 2026/4/26 06:30(最終更新 4/26 06:30) 有料記事 2460文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷折り紙で折ったハトを手にする山下しのぶさん(左)と今井セイ子さん=大阪府寝屋川市で2026年4月18日、川平愛撮影 母親が亡くなる時、4歳の妹は母の死を怖がり、呼んでも近づこうとしなかった。 「ああ、死ぬんだな」。7歳だった少女は死の床にある母親を見つめながらそう思った。「母親が死ぬ」とはどういうことなのか、まだ理解できていなかった。 1951年1月。広島への原爆投下から5年5カ月がたっていた。 原爆から生き延びたのに全身のだるさに苦しみ続け、母は29歳の若さでおなかの子とともに亡くなった。 核の脅威が高まる今こそ、人間らしく生きる権利を奪う核兵器の罪深さを知ってほしい。 2歳の時に広島で被爆し、7歳で母親を亡くした山下しのぶさん(83)=大阪府寝屋川市=が27日から米ニューヨークで始まる核拡散防止条約(NPT)再検討会議に合わせて渡米する。覚えているのは、一つだけ 「原爆が落ちた前後のことは何も覚えていないんです」。そう言って、山下さんは後になって聞いたという体験を語ってくれた。 45年8月6日午前8時15分、山下さんは広島市段原東浦町(現南区)の自宅前で、1人で手押し車で遊んでいた。爆心地から約2キロ。 猛烈な爆風で小さな体は玄関の中まで吹き飛ばされた。出勤前で自宅にいた父の西川秀春さんが玄関に走ってきた直後、屋根が崩れ落ちたが、隙間(すきま)に入り、2人にけがはなかった。 一つだけ覚えているのは、裏庭で洗濯をしていた母照子さんの目が腫れ上がり、自宅前の防火水槽の水で冷やしていた姿だ。 倒壊した自宅に挟まれ、顔を打撲したとみられ、あごには木切れが刺さっていたという。あごの傷は亡くなるまで残っていた。死因は「原爆病」 被爆後、照子さんは何をするにもしんどそうだった。大工だった秀春さんが戦後、出稼ぎで家を空けたため、内職をしながら山下さんと被爆翌年に生まれた妹を育ててくれた。 「いつも体の『あっちが悪い、こっちが悪い』と言っていたけど、寝込むひまもなさそうだった」。亡くなった時、広島市の職員に死因を「原爆病」にするよう言われたという。 照子さんはこの時、妊娠8カ月だった。…この記事は有料記事です。残り1616文字(全文2460文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>