毎日新聞 2026/3/4 05:00(最終更新 3/4 05:00) 有料記事 2245文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷長野冬季パラリンピックのアルペン(チェアスキー)女子滑降で金メダルを獲得した大日方邦子さん=志賀高原で1998年、橋本政明撮影 にぎやかなカウベルの音が鳴り響き、フィニッシュエリア付近にはこれでもかと子供たちが詰めかけた。 長野大会を4年後に控えた1994年のノルウェー・リレハンメル大会。パラアルペン界の第一人者・大日方(おびなた)邦子さん(53)は、初めてのパラリンピックで現地の熱烈な応援を目の当たりにした。 「こんな姿、4年後の日本であるのだろうか」。熱狂の渦にのみ込まれながら、ふと不安がよぎった。片道8時間かけスキー場通い 日本選手団は第2回となった80年のノルウェー・ヤイロ大会以降、毎回パラリンピックに出場していたが、国内の障害者スポーツの認知度は依然として低かった。 3歳の時に交通事故で右脚を失い、17歳でスキーを始めた大日方さん自身も初めはパラリンピックの存在すら知らなかったという。 大学1年で日本代表合宿に初参加したが、東京から片道7、8時間かけて富山県内のスキー場に通わなければならなかった。当時はチェアスキーで利用できるスキー場は限られ、安全性の懸念からリフトの乗車を断られることもあったからだ。 91年に長野大会の開催が決まった後も、すぐに状況が好転したわけではない。 「(長野開催が)決まっても国内ではほとんど話題にならなかった」。本番の会場である志賀高原で初めて練習できたのは、大会の2年前になってからだったという。深夜の極寒リンクが練習場所 長野大会で実施されたアイススレッジスピードレースも練習環境の厳しさに直面していた。 ミラノ・コルティナ冬季パラリンピックの開幕を前に、第1回から半世紀を迎えた冬季大会の礎を築いた人たちの歩みを振り返ります。全3回の第2回、5日まで連日午前5時に公開予定です <日本人初 孤独な挑戦とその足跡>からつづく 刃のついたソリに乗り、氷上を手に持ったスティックでこいで前進する競技でリレハンメル大会から採用された。だが、日本ではほとんど知られていなかった。 「ゼロスタートだった」と振り返るのは監督を務めた三井利仁さん(61)。車いす陸上の指導に携わっていたところ、白羽の矢が立った。 効率的に選手の発掘、育成を進めるべく車いすバスケットや陸上などを経験している選手を中心に声を…この記事は有料記事です。残り1333文字(全文2245文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>