ローマ字で問屋名も 愛媛・砥部焼、明治~昭和の輸出磁器を確認

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毎日新聞 2026/4/17 09:15(最終更新 4/17 09:15) 968文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷右から読む「愛山」(窯元)と、ローマ字の「HASHIDA」(問屋)の名、さらに「JAPAN」と記された砥部焼。海外進出を強く意識した製品か=愛媛県砥部町で2026年3月20日、松倉展人撮影 愛媛県を代表する焼き物・砥部焼。販路を海外に拡大し、産業として全盛を誇った明治後期から昭和初期にかけての磁器の一部が産地の砥部町で確認された。当時を代表する窯元「愛山」(向井窯)と専門問屋「HASHIDA」(橋田商事)、さらに「JAPAN」と記され、連携して海外進出した気概が伝わる。町教委と共同で2021年から砥部焼の歴史研究を進めている槙林啓介・愛媛大学准教授(考古学)は「類例のない発見。砥部焼史を知る一級資料」としてさらに調査を続ける。 器は砥部焼研究家で、砥部焼協同組合理事長、砥部町議会議長も務めた山本典男さん(24年に79歳で死去)が収蔵した型紙染め付けの砥部焼。製造時期は分かっていない。同町で砥部焼など歴史資料の収蔵・展示に当たっている豊島吉博・砥部むかしのくらし館長とともに槙林さんが26年1月、山本さん宅で収蔵品の説明を受けた際に家族から示され、特にローマ字の名が目を引いた。Advertisement 槙林さんによると、向井窯(窯元・向井和平氏=号・愛山)は、1893(明治26)年の米シカゴ万国博覧会に砥部焼を初めて出品して高く評価され、その後は積極的に輸出を志向した。一方、ローマ字で「HASHIDA」と記した橋田商事は幕末から砥部焼問屋「橋田屋」として名を成し、1914(大正3)年に会社組織に。大正期、神戸に支店を置いて中国系、インド系貿易商らと取り引きしたとされる。砥部焼輸出に貢献した問屋「橋田商事」を考察した資料を示す槙林啓介・愛媛大学准教授。画面上の肖像は同社全盛期の橋田金四郎社長=松山市で2026年4月14日、松倉展人撮影 「砥部焼の歴史」(砥部町教委編)によると、橋田商事が開拓した販路はアジア、オセアニアからアフリカ東海岸に及んだ。3カ所の工場も直営し、従業員も100人に達したと伝えられるが、世界恐慌が始まった1929(昭和4)年に解散した。 当時の輸出品目や収益など、詳細な記録は残っていないものの、「この器は全盛期の窯元と問屋による密接なコラボレーション作品で、磁器として良質な製品」と槙林さん。また、豊島さんは「砥部には陶石の採掘から土作り、絵付け、焼成、出荷、販売、流通までの『焼き物づくりの一貫体制』があり、その歴史的意義を伝える資料の一つといえる」として、山本さんの家族の協力でこの器を「日本有数の窯業遺産 砥部焼は日本の宝展」(砥部むかしのくらし館で27年1月末まで)で初展示している。 同館(089・962・5258)は土、日曜のみ開館。入場無料。【松倉展人】あわせて読みたいAdvertisement1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>