毎日新聞 2026/4/15 09:00(最終更新 4/15 09:00) 有料記事 2237文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷療養所で暮らす佐藤勝さん。先輩から自治会活動を引き継ぎ、今はほぼ1人で担っている=青森市の松丘保養園で2025年12月8日、上東麻子撮影 ハンセン病患者を強制的に隔離収容する「らい予防法」が廃止されて、4月で30年になった。 全国に14ある療養所は入所者の減少と高齢化が進み、過酷な体験を伝える語り部が少なくなっている。 その一人で、1963年に14歳で青森市の国立松丘保養園に入った佐藤勝さん(77)は「もしかしたら、自分が最後の一人になるかもしれない。ハンセン病の歴史を知ってもらうための明かりを消したくない」との思いを強くしている。【上東麻子】小6で受けた診断 佐藤さんは秋田県の農家出身。外で遊びまわるガキ大将だった。 小6の秋、足をけがして病院に行ったとき、ハンセン病と診断された。 父親も同じ病気で自宅療養していた。帰り道、母親から「お前の病気はお父さんと一緒だ」と言われ、頭が真っ白になった。 卒業式の日、先生から手紙を渡され、読んだ母に「中学には通えなくなった」と告げられた。友達も遊びに来なくなった。 家の前にある中学校に、仲間が通学するのを隠れて見ていた。「あの家は父親がハンセン病で、息子もそうだ」。村人がうわさするのを、子どもなりに感じた。 「どこにも行く場所がない。家の中で、じっとしていた。つらかったね」。父に代わり、母が早朝から晩まで田畑で働いた。川の字で寝た、最後の夜 戦後、特効薬プロミンが国内でも使われるようになり、ハンセン病は治る病気になった。佐藤さんが入所した年、国際らい会議では外来治療が提唱され、「無差別の強制隔離は時代錯誤であり、廃止すべきだ」とされた。 しかし日本では医学的視点を欠いた隔離政策が続いた。各県が患者を見つけて療養所に収容する「無らい県運動」を実施。佐藤さんの家にも保健所の職員がたびたび訪れて入所を勧めた。一方で父は入所を拒んだ。 ある日、妹が学校から帰るなりランドセルを放り出して泣きだした。「明日から学校に来るなと先生に言われた」という。佐藤さんは振り返る。「それを父は病床で聞いていたんだと思う。『お前と一緒に病院に入ることにした』と言い出した」 ところが父はその直後に急死した。母が火葬場に電話したら「らい患者は受け入れられない」と断られ、仕方なく土葬で弔った。 佐藤さんだけがその後間もなく、松丘保養園に入所。母と妹が見送りに来て面会所に泊まり、川の字になって眠った。家族で過ごす、最後の夜だった。紙切れに書かれた「園名」 すぐに、厳しい現実を突きつけられた。 園の自治会から「親からもらった名前ではなく、ここで生きていくための名前にした方がいい」と言われた。 渡されたのが「佐藤勝」と書かれた紙切れ。…この記事は有料記事です。残り1167文字(全文2237文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の筆者すべて見る1時間24時間SNSスポニチのアクセスランキング1時間24時間1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>