「ない」はずの場所から遺物が続々…動物園の下にあった愛媛の湯築城

Wait 5 sec.

湯築城跡の全景。内堀、外堀と二重の堀に囲まれ、左上には道後温泉本館がある=松山市で2014年(同市提供)写真一覧 小型の油圧ショベルで地面を試し掘りすると、釉薬(ゆうやく)がかかった陶磁器の破片が地表に姿を表した。1988年、県立動物園が愛媛県砥部町に移転した後の道後公園(松山市)で、遺跡の発掘調査が始まった。「いっぱい出てくるね」。同僚と思わず顔を見合わせた。「残っていない」はずが 同市の公益財団法人・愛媛県埋蔵文化財センターの柴田圭子さん(63)は、発掘調査に当初から携わった。公園には約400年前まで湯築(ゆづき)城があったが、城跡にはそれまで動物園が立地していて「遺構は残っていない」と聞いていた。次々と出土する遺物に驚いた。Advertisement1988年に始まった湯築城跡の発掘調査を振り返る柴田圭子さん=松山市で2025年12月2日午前11時38分、狩野樹理撮影写真一覧 柴田さんは、湯築城跡の遺構や貿易陶磁器に関する研究などを続ける中世考古学の専門家だ。発掘が進み、並んだ石組みが出てきた時のこと。城跡の外堀土塁の内側で、今は道後公園の遊歩道の一部となっている場所に並んでいた。「溝? 道だよね? こんなの見たことないよね?」。興奮し、何度も同僚と確かめ合った。城内道路のための石積みだった。「とどめを刺されましたね。これは壊しちゃいけない遺跡だと認識した瞬間でした」城の特殊事情 湯築城は、平安時代から勃興した豪族で伊予国(愛媛県)の守護を務めた名門・河野(こうの)氏の本城だった。14世紀末から15世紀初頭にかけて一族発祥の地の風早(かざはや)郡河野郷(松山市北条地区)から拠点を移したとみられ、1585(天正13)年に羽柴秀吉の四国攻めで小早川隆景の攻撃を受けて開城するまでの200年前後、本拠だった。湯築城跡の内堀=松山市で2025年11月11日午後1時13分、狩野樹理撮影写真一覧 1988年に始まった城跡内の発掘調査は、道後公園(約8・5ヘクタール)のうち動物園があった南側一帯を中心に実施。2001年度までに約2ヘクタールが発掘され、建物の礎石や瓦などが見つかった。16世紀半ばに城内で火災が起き、燃えたものを城内に埋め、焼けた建造物の上に新しい建物を建築したという特殊事情により遺構や遺物がよく残っていたという。 特徴的なのが渡来品の存在だ。見つかった25万3255点に上る器や容器の破片の中には、輸入陶磁器のものが1万2999点含まれていた。中国の宋代(960~1279年)から続く吉州窯(きっしゅうよう)(天目茶わんの名産地)の酒器・瓶子(へいし)や、タイ産の一対の絵つぼなど、中国大陸、朝鮮半島、東南アジア産のものなどが出土している。渡来品、どこから? 河野氏は伊予から遠く東南アジアにまで進出していたのか――。柴田さんは「河野氏がタイへ行き持ち帰ったわけではない」とかぶりを振った上で、当時、河野氏と接点があった商人の中に、東南アジアと貿易していた博多(福岡市)や琉球王国(現在の沖縄県)とつながりのある者がいたのではないかという自説を披歴した。博多は当時、古代から続く国際貿易都市だった。 出土した渡来陶磁器は、16世紀半ばのものが大半を占める。河野氏は16世紀前半に、湯築城の外堀を造ったとされ、城の周辺に城下町を整備したのに伴い商人も呼び込んでいたと考えられていて、多数の渡来品の出土につながったとみられる。 戦国時代に四国を統一した長宗我部(ちょうそかべ)元親などと比べると知名度が低い河野氏だが、その歴史は古い上に、当時、交通や流通の要だった海との関係も深い。「海賊」の親分 平安時代末期の源平合戦では、源頼朝の平家討伐に呼応し、水軍を率いて平家が滅亡した壇ノ浦の戦いに加わった。鎌倉時代には元軍による2度目の襲来「弘安(こうあん)の役」にも参戦し、武名をはせた。 柴田さんは、こうした歴史から、湯築城に拠点を移す以前の河野氏は「海の勢力を束ねる立場にあった」と推察する。河野氏には弘安の役の戦功で得た所領が九州にもあったといい、博多とのつながりも深かったとみられ、「その影響力は瀬戸内海だけとは言えないのでは」と指摘する。 室町から戦国時代にかけて、瀬戸内海の島々では「日本最大の海賊」とも呼ばれた村上海賊が台頭した。当時の湯築城下には、村上海賊の有力三家のうち、能島(のしま)村上氏と来島(くるしま)村上氏が館を構えていたと考えられている。言わば、瀬戸内海を仕切る海賊の「親分」だった河野氏は、貿易の航路を押さえ、渡来品を手に入れやすい環境にあったとみられる。 さらに湯築城の近くには、古代から道後温泉があった。周辺には石手寺や伊佐爾波(いさにわ)神社といった寺社もあり、人や物が集まる交通の要衝だった。伊予国の中央部に位置し、瀬戸内海にも面する松山平野ににらみを利かせるにはうってつけの拠点だったのだろう。河野氏は「湯築城の城下町と道後のまちを一体化させていった」と、柴田さんは解説する。浮かび上がる在りし日の姿湯築城跡でボランティアガイドの活動を続ける伊藤茂さん(右)。城の魅力を伝えるだけでなく、来場者の興味をひくような解説を心がけている=松山市で2025年11月18日午前10時8分、狩野樹理撮影写真一覧 甲斐(かい)(山梨県)の武田、越後(新潟県)の上杉、奥州(東北)の伊達――。全国各地で有力な大名が群雄割拠した戦国時代にあって、「伊予の河野」と言われても、ピンとくる人はほとんどいないだろう。さらに、上杉家や伊達家のように江戸時代に大名家として存続した家と違って、戦国時代に滅亡してしまったため、伝承する史料が少なく「謎のベール」に包まれている。 だが、海、渡来品、道後温泉と、湯築城を取り巻く要素に多角的にアプローチすると、在りし日の河野氏の姿がおぼろげながら浮かび上がる。柴田さんは言う。「(河野氏は)いろいろ想像できるのが面白いんですよ」 発掘調査の開始から14年後の2002年9月、湯築城跡は国史跡に指定された。以来、城跡を案内するボランティアガイドが活動し、今は約50人のガイドが観光客を出迎える。 ガイドの伊藤茂さん(81)は、23年にわたり活動を続ける。その理由は「湯築城跡が好きだから」。案内の際には「河野一族のストーリーをイメージしやすいように」と、教科書に登場する「元寇」といった歴史的な出来事を話題の入り口にするなど工夫を重ねる。 松山市で「城」と言えば、四国最大規模の城郭で、全国に残る「現存12天守」の一つの松山城が頭に浮かぶが、歴史に思いをはせれば湯築城も奥深い。近くの寺や神社で初詣するついでに、湯築城跡に足を運んでみてはどうだろうか。【狩野樹理】湯築城跡 伊予鉄道の路面電車で道後公園(湯築城跡前)電停下車。目の前。