忘れられた台湾人作家 未完の「日本語小説」ひもとく家族史

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毎日新聞 2025/11/2 05:00(最終更新 11/2 05:00) 有料記事 1914文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷台湾の作家・周金波の残した小説について語る長男の振英さん=2025年10月13日、新宮巳美撮影 その白い表紙のノートには、青色のインクで日本語の文字がびっしりと書かれていた。本来は横書き用を縦書きで使用。冒頭にはこうあった。 <夕餉(ゆうげ)にはまだ早い時間と思った。空は明るく、熱い陽(ひ)ざしはおとろえていない。亜樹は老師(せんせい)にどなりかえされるのを目の前にして一瞬ためらった> 「これは父が書いた『家族史』ともいえる小説です」。そう話したのは関東地方で暮らす周振英さん(82)。台湾出身で祖父、父と3代にわたる歯科の家系。日本で歯科医院を開業していた。 「父」とは周金波(1920~96年)。台湾出身の歯科医でかつ、作家でもあった。 約10年前、金波の遺品を整理中の家族がこのノートを見つけた。小説は63ページにわたって書かれ、構想メモも記されている。7部構成のようだが第3部付近で終わっている。タイトルはなく、未完とみられる。※この記事は前編です。後編はこちら東京で書いたデビュー作 発見後、中華科技大(台北)助理教授で、日本統治期の台湾文学を研究する莫素微さんが、中国語で研究論文に取り上げた。日本ではまだ紹介されていない。 冒頭に登場する「亜樹」は台湾の少年で、物語の主人公だ。振英さんは「『亜樹』は祖父だ」とすぐ分かったという。「どんな家庭で育ったのか。父は祖父の生い立ちを小説にしようと思ったのでしょう。家の周辺の地図も原稿に書き込んでありました」 台湾は1895年、日本の統治下に置かれ、日本が敗戦する1945年まで続いた。日本は同化政策、皇民化政策を進め、その中で台湾の作家たちは日本語で小説を書いた。金波もその一人だった。 金波は台湾北部の港町・基隆に生まれた。金波の父、楊阿寿(1897~1987年)は日本人歯科医の下で働き、金波の誕生後、日本に留学。日本大専門部歯科に合格し、金波と妻を東京に呼び寄せた。だが…この記事は有料記事です。残り1141文字(全文1914文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>