毎日新聞 2025/11/2 05:01(最終更新 11/2 05:01) 有料記事 3120文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷台湾の作家、周金波の写真を見る長男の振英さん=2025年10月13日、新宮巳美撮影 台北から北へ電車で40分ほど。記者(棚部)が終点の駅から出ると、目の前に巨大なクルーズ船が停泊していた。快晴の空と青い海に白い船体が映える。ここは港湾都市・基隆。戦後、国民党政権下で「忘れられた作家」となった周金波の故郷だ。台湾の北の玄関口であり、戦後の引き揚げ港として日本人の記憶にも残る。 港を横目に駅前の商店や飲食店が並ぶ通りを南東へ徒歩約5分、「長寿歯科」の看板を見つけた。細い階段を2階に上ると、診療所の待合室で金波の三男、周振才さん(78)が迎えてくれた。※この記事は後編です。前編はこちら3代続く歯科医院 祖父・楊阿寿が開き、父・金波が引き継いで約100年続く歯科医院。今は振才さんが守っている。 「父が病気になったので、日本にいた私が台湾に戻ってきたんです」。振才さんは、かすれぎみの声の日本語で話してくれた。1991年に引き継ぐまで、石川県・能登島の診療所で働いていた。 2022年4月、郊外の文化会館で「周金波展」が開催された。会館には、金波の資料が今も保管されていると教えられた。振才さんに「行ってみようか」と誘われ、記者は文化会館へ向かった。 当時の展示会では、若き日の金波の胸像も披露された。地元を中心に多くの人が会館に足を運んだという。施設2階にある一室には、胸像をはじめ、蔵書や原稿、日記がひもでとじられ、未整理のまま保管されていた。 振才さんはこう振り返る。「厳しい父でした。また、家でしょっちゅう何か書いていたのを覚えています」父が明かさなかった過去 金波は家庭で台湾語と日本語を話した。だが振才さんは父の晩年までかつて小説を書いていたことを知らなかった。 日本の敗戦後、国民党体制になっていた46年5月。金波は物価上昇に反対したデモに参加し、首謀者とみなされる。3日間拘束され、厳しい拷問を受けた。 さらに…この記事は有料記事です。残り2348文字(全文3120文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>