ひとシネマ:妻夫木聡さん主演「宝島」から読み解く うちなーんちゅの「悔しさ」

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ひとシネマ毎日新聞 2025/11/5 11:00(最終更新 11/5 11:00) 有料記事 2477文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷「宝島」Ⓒ真藤順丈/講談社 Ⓒ2025「宝島」製作委員会 タコライスにルートビア、カタカナ地名にビーチパーティー――。 沖縄に来たら、米国統治時代(1945~72年)がもたらした異国情緒にわくわくするかもしれない。 ただ、沖縄に関心を持ってくれたなら、うちなーんちゅ(沖縄の人)がその時代から抱き続ける「悔しさ」にも目を向けてほしい。 映画「宝島」はその裏側にある苦難の歴史に、正面から向き合おうとしたまれな作品だ。「戦果アギヤー」たちのその後 県民の4人に1人が亡くなったとされる第二次世界大戦末期の沖縄戦から米国統治は始まった。地上戦を生き延びた住民は島内各地の収容所に集められ、米軍はその間に利用価値の高い平地や見晴らしのよい台地に次々と基地を建設した。 戦前、県内の就業者の7割超が農業に従事していた。終戦後、収容所から帰郷が認められても、基地建設で田畑を失った多くの住民は基地で運転手や大工、メイドなどの「軍作業員」として働くしかなかった。 疎開者や戦地からの引き揚げ者の帰還が本格化すると、食料や物資の不足が深刻化した。軍作業や狭くなった耕作地での農業だけでは生活をまかなえず、基地から食料や医薬品を「戦果」として盗み、住民らに配る「戦果アギヤー」と呼ばれる人々が暗躍した。 米軍側は窃盗行為を現認すると、射殺もためらわなかった。「宝島」で描かれるのはそうした「戦果アギヤー」たちのその後だ。取り残された貧困層 「胸が痛む世相だった。母親が売春して生計を立てている同世代の子は身近にもいた」 米軍嘉手納基地に近く、米兵相手の歓楽街が急速に発展したコザ市(…この記事は有料記事です。残り1822文字(全文2477文字)【時系列で見る】【前の記事】音声ガイドも見とれた「おーい、応為」の美人画 どこまで言葉にすべきか関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>