障害者アスリートの「引退後」に希望を 義足ジャンパーが描く未来図

Wait 5 sec.

小学校の体育館で特別授業をする鈴木徹さん=高松市立牟礼南小提供 夏の終わりが近づいた8月下旬。北海道函館市では、身体障害、知的障害を持つパラアスリートたち17人が強化合宿に参加していた。彼らは日本代表の陸上選手たち。翌月インドで開幕の世界選手権へ出場予定で、各自の課題に取り組んでいた。 そんな中、あるイベントが企画された。選手それぞれが自分自身についてプレゼンテーションをする。持ち時間は10分間だ。Advertisement 「障害が残ったとき、死にたいと思いました」 そう打ち明けたのは、松本武尊(たける)選手(24)。高校生の時に脳卒中を患い、脳性まひの障害がある。100メートルや400メートル走に取り組み、2021年の東京、24年パリの両パラリンピックに出場した。 絶望の淵にいた松本さんのそばにいてくれたのが、医療機関のスタッフだった。「自分も患者さんを支える仕事がしたい」と、現在は作業療法士として働く。北海道函館市での強化合宿でインタビューに応じる鈴木徹さん=日本パラ陸上競技連盟提供 計7人が障害や競技への思いをまとめた資料を使って説明した。その話にじっと耳を傾けていたのが鈴木徹さん(45)だ。自身も元パラ選手で、走り高跳びの日本記録保持者。00年のシドニー・パラリンピック以降6大会連続で出場、かつ入賞を果たした。いわば「レジェンド」である。選手と社会の「接点」増やしたい 今春、日本パラ陸上競技連盟の強化委員長に就任して臨んだ合宿。今回の企画は、鈴木さんがどうしてもやりたかったプログラムだった。 強化委員長とは文字通り、選手たちが好成績を出すための司令塔だ。しかし鈴木さんが重視するのは大会の結果だけではない。 鈴木さんは今春、強化委員長の就任記者会見で活動ビジョンを発表した。その一つが「競技を通じて社会に必要とされる人材を育てる」。競技に励むだけでなく、社会とつながる大切さを強調したかった。 今回の函館でのプレゼンは、若い選手が自分を表現する「訓練」と位置づけていた。さらに、選手の活動を援助してくれるスポンサー企業でのインターンシップ(就業体験)も計画中だ。来年からは、選手による小学校などへの出張授業を本格化させる。「選手の収入増につながるだけでなく、社会との接点が生まれる」と話す。 この方針は自身の経験に基づいていた。「企業や社会との接点を増やし、現役中だけでなく、引退した後の『第二の人生』も見据えたい」18歳、事故で右脚を切断シドニー・パラリンピックの男子走り高跳びに出場した鈴木徹選手=オリンピックスタジアムで2000年10月26日、石井諭撮影 幼い頃からスポーツが大好きで水泳、野球、バスケットボールに取り組んだ。特に「跳躍」が得意だった。一方、言葉が滑らかに出ない吃音(きつおん)で、コンプレックスを抱えていた。 バスケットボールでは持ち前の跳躍力を発揮し、少し自信が持てた。「これなら自分を表現できる」 出身の地域はもともとハンドボールが盛んだった。「ジャンプ力を生かしたい」と中学から始め、高校は強豪の駿台甲府(甲府市)へ進んだ。国体で3位になり、大学へのスポーツ推薦も決まった。 ハンドボール選手から、いつかは指導者へ。そんな未来図を描いていた。だが、高校の卒業式を1週間後に控えた18歳の春、人生は大きく変わる。 運転免許証を得てほどない時期だった。自動車の運転で操作を誤り、ガードレールに激突した。重傷を負い、右脚の膝下11センチまでを残して切断した。リハビリきっかけに道開ける北京パラリンピックの開会式で、日本の旗手を務める陸上の鈴木徹選手=国家体育場で2008年9月6日、小出洋平撮影 当初は再びハンドボールに取り組みたいと思っていたが、断念。大学を1年間休学し、義足をつけての生活に慣れるためのリハビリに励んだ。リハビリの一環で何気なく始めたのが走り高跳びだった。 持ち前のジャンプ力は片足を失っても健在だった。高跳びを始めてわずか3カ月。00年シドニー・パラリンピックに出場できる記録を突破し日本代表に選出された。パラアスリートとしての道が一気に開けた。「日本初の義足ジャンパー」と呼ばれた。 06年に日本人として初めて2メートルを突破した。16年には自己ベストを更新し2メートル02を計測。「義足・機能障害T64クラス」の日本記録で今も破られていない。パラリンピックではメダルこそつかめなかったものの、6大会連続で入賞を果たす。08年の北京パラリンピックでは日本選手団の旗手を務めた。15年からはSMBC日興証券の社員となり、さらに競技に集中できる環境になった。現役引退は「始まり」インドで行われた世界パラ陸上競技選手権大会でメダルを獲得した選手とともに記念撮影する鈴木徹さん(右から2人目)=日本パラ陸上競技連盟提供 しかしすべてのアスリートと同じように、競技を終える日が訪れた。24年5月、神戸市で行われた世界選手権。思うように記録を伸ばせず、7大会連続出場を目指したパリ・パラリンピックへの扉が閉ざされた。 自分の中で大きな区切りがついた。 「自分が持てる力はすべて出した。やり切った」 鈴木さんにとって現役引退は「終わり」ではなかった。むしろ、長年意識してきた新しい人生の「始まり」だった。【川村咲平】