毎日新聞 2025/11/9 07:00(最終更新 11/9 07:00) 1189文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷「寒かったです」と第1回大会を振り返る大阪ホーマーの堀口忠雄さん。半世紀にわたって裏方として大会を支えてきた=大阪市東成区の同社で2025年10月10日午後2時12分、中田博維撮影 「寒かったですよ。球場が広いので、お客さんがいても閑散としている感じで……」。1974年10月28日。兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で幕を開けた第1回社会人野球日本選手権大会をこう振り返るのは、野球用品の製造販売会社「大阪ホーマー」=大阪市=取締相談役の堀口忠雄さん(82)だ。以降、半世紀にわたって裏方として大会を支えてきた。第1回では切符のもぎり担当 受付やグラウンド整備など、日本選手権を含む関西で行われる大会の運営には、連盟スタッフやチームのマネジャーだけでなく、社会人と関わりの深い運動具店の社員も加わってきた。Advertisement 第1回大会で切符のもぎりをしていたところ、大会創設に尽力した、日本高校野球連盟会長(当時)の佐伯達夫・日本社会人野球協会最高顧問がふらっと球場を訪れたという。「『寒いでんな』と世間話をしたことを覚えています」と笑う。「寒かったです」と第1回大会を振り返る大阪ホーマーの堀口忠雄さん。半世紀にわたって裏方として大会を支えてきた=大阪市東成区の同社で2025年10月10日午後2時20分、中田博維撮影 京都市出身で野球少年だった堀口さん。「甲子園に行くならここしかない」と強豪の平安高(現龍谷大平安高)へ。だが、1学年で100人以上いたという大所帯。3年間でベンチ入りはかなわなかった。野球用品の会社に転職 「代走で起用してもらった」という大阪商業大を経て、飲料品メーカーに就職。それでも「野球に携わりたい」という思いから、打撃練習に使うピッチングマシンを製造していた神戸市の「ホーマー産業」に転職し、兵庫県内の社会人チームとの関わりを深めた。 73年の大阪支店設立時に大阪へ。その後「大阪ホーマー」として独立した75年からは、大和銀行や中山製鋼(ともに99年休部)、大阪ガスなどの担当になった。日本選手権開幕前夜に行われた記念式典で、日本野球連盟の清野智会長(左)から表彰盾を受け取る大阪ホーマーの堀口忠雄さん=大阪市中央区のホテル日航大阪で2025年10月27日午後7時24分、中田博維撮影人脈生かし奔走 道具の販売だけでなく練習の手伝いも進んでやった。豊富な人脈や経験を生かして、設立されたばかりのチームの監督に同行し練習試合の相手探しにも奔走した。 帰宅はいつも深夜。それでも、担当チームの活躍が何よりうれしかった。第14回大会(87年)で初出場初優勝を果たした中山製鋼の部長から「表になり裏になって支えてくれた」と感謝され、優勝メダルを贈られている。「高校では何度も野球をやめようと思った。だけど、この仕事はレギュラーだったら務まらなかったと思う。下積みを経験したからこそ」と振り返る。 大会運営への長年の貢献が認められ、今大会開幕前日の10月27日に表彰された。 「都市対抗に匹敵する立派な大会になった」と喜ぶ一方で、多くの休廃部も見てきた。「鐘淵化学(兵庫)が第2回大会で優勝した2年後に休部したのはショックだった。(トヨタ自動車と並ぶ)7回の優勝をした住友金属(の99年廃部)も印象に残っている」 それだけに、今のチームへの注文も忘れていない。「かつては練習は仕事をした後の午後から、が主流だった。今はそうではないかもしれないが、仕事を第一に最高級のプレーを見せてくれるのが社会人だと思っている」【中田博維】【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>