24色のペン:終戦翌日、111人の若者はなぜ死んだのか=鵜塚健

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24色のペン毎日新聞 2025/8/20 06:00(最終更新 8/20 06:00) 有料記事 2367文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷震洋隊事故の犠牲者を悼み、建てられた慰霊塔と兵士像=高知県香南市で2025年5月11日、鵜塚健撮影 国家や権力を持つ人物が、壮大なストーリーを語るようになった時は危険だ。80年前、数々の特攻隊が編成された時も、自爆攻撃が戦局を打開するかのような筋書きが旧日本軍によって語られた。奇跡は起きなかった。 鎌倉時代に蒙古軍を撃退したような突風が吹いて形勢を逆転させる。そんな願いが込められた「神風特攻隊」が有名だが、水上の特攻隊では「震洋」が知られている。太平洋戦争末期、艦船が足りなくなった海軍は、ベニヤ板で作った全長約5メートルのボートによる自爆攻撃を考え出した。先端に250キロの爆薬を積んだ特攻ボートは、「太平洋を震撼(しんかん)させ、戦局を反転させる」との意味から「震洋」と名付けられた。簡素な作りと名称があまりに不釣り合いだ。 震洋隊は九州や四国、関東など各地の沿岸部に拠点が置かれたが、実際に出撃したボートは少なかった。移動中や訓練中なども含め約2500人が犠牲になったが、終戦の翌日に111人の若者が亡くなったことはあまり知られていない。高知県東部の香南市夜須町手結山に拠点が置かれた「第128震洋隊」だ。 「多くは18歳前後の若い人たちばかり。本当に気の毒ですよ」。そう語るのは地元住民で作る「震洋隊奉賛会」の会長、横田栄介さん(71)だ。 奉賛会の資料などによると、1945年8月16日夕方、「高知沖に敵の艦船が見える」との情報をもとに、軍の上部から震洋隊に出撃準備命令が出された。隊員たちは壕(ごう)から爆薬を積んだボートを引っ張り出し、出撃の準備を始めた。すると海岸に並べた1隻が突然爆発。その後、周辺のボートにも引火して次々に爆発し、大きな炎に包まれた。横田さんは、当時15歳くらいだった父親から悪夢のような話を聞いた。…この記事は有料記事です。残り1646文字(全文2367文字)【前の記事】24歳慶大生が体現する「日本人ファースト」のおかしさ=太田敦子関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>