戦時下ですから毎日新聞 2025/8/17 11:00(最終更新 8/17 11:00) 有料記事 2783文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷写真の左に家族と写る松川仁さん。登戸研究所時代などを振り返った手記「キノコ随想」や自費出版した「茸の手帖」を残した=東京都千代田区で2025年8月7日、長谷川直亮撮影 意に沿わない業務命令でも、勤め人としては、むげに断れなかった。 だが、倫理に反することはすべきでないとの思いが募り、ささやかな抵抗を試みた。 表向きは仕事を続けながら。 連載「戦時下ですから」は全7回のシリーズです。 こちらから読めます。イネを枯らす病原菌の実験 1942年6月、当時26歳だった松川仁(ひとし)さんは借り物の飛行服に身を包み、中国大陸の上空を飛ぶ爆撃機に乗っていた。 目的地は湖南省・洞庭湖の西側に位置する街。ある作戦を任されていた。 イネを枯らす病原菌の効果をみるため、菌を害虫の二化螟虫(めいちゅう)とともに空から散布する。 まだ試験段階だった。研究責任者は別にいたが、散布の実施責任者になるよう上司に説得され、長崎から上海経由で南京に入った。 内心では大した効果はないだろうと思っていた。その気持ちをこう書き残している。 <あの広い中国大陸に少しばかりの菌を持ち込んでみても、おそらく痛くも痒(かゆ)くもない筈(はず)であった> 松川さんは東京農業大を卒業後、通信社を経て第九陸軍技術研究所(通称・登戸研究所)に勤めた。妻千代子さんとの結婚を控え、大学で学んだ専門を生かし、経済的な基盤を固めたいと考えていた。 <この一時が私にとって人生の中で最も満たされた時間であった> 新婚生活についてそう書き記す一方、川崎市にある研究所に通い続けた。 各研究室の研究事項は極秘だったが…この記事は有料記事です。残り2183文字(全文2783文字)【時系列で見る】【前の記事】「でも、殺すなとは言えなかった」 刺突訓練、拒んだ兵士の悔恨関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>