キャンパる:「戦争は絶対だめだ」 語り続ける100歳のシベリア抑留体験者

Wait 5 sec.

数少ない存命のシベリア抑留経験者である西倉さん。自宅の本棚にはシベリア抑留に関する本がずらりと並んでいる=相模原市で、上智大・佐藤香奈撮影 太平洋戦争の終戦後、シベリアなどに抑留された日本人は、冬には氷点下30度を下回る厳しい環境で過酷な労働を強いられ、約6万人が命を落とした。3年にわたる抑留生活を体験した西倉勝さんもその一人だ。今年5月で100歳を迎えたが、今なお語り部としての活動を続けている。「戦争はいけない」という西倉さんの強い思いに耳を傾けた。【上智大・石脇珠己(キャンパる編集部)】「だまして我々を連れて行った」 現在、神奈川県に住む西倉さんは新潟県二田村(現柏崎市)で生まれ育った。召集されたのは1945年1月、19歳の時のこと。朝鮮・会寧(かいねい)の陸軍部隊に所属し、そのまま終戦を迎えた。8月18日、ソ連軍に中国東北部(旧満州)の図們(ともん)まで連れて行かれ、武装解除された。道路には民間人の死体がゴロゴロ転がっていた。日本の戦車の5倍も大きなソ連の戦車もあった。それを見た時、とても勝てる相手ではなかったと痛感させられたという。Advertisement1945年1月15日、新潟県二田村(現柏崎市)の実家からの出征した時の写真。このあと西倉さんは朝鮮半島に送られた=西倉さん提供 その後、ソ連軍に「日本に帰す」と言われ、約200キロの道のりを10日間歩かされた。到着したのはソ連の領土で、貨車に乗せられた。西倉さんらは日本に帰すという言葉を信じ、ウラジオストクなど南の方へ行くかと期待した。しかし、方位磁石が示したのは北の方角。一同はがくぜんとし、車内では悲鳴が上がった。「もうだめだよ、こりゃシベリアだ。仲間の悲鳴が今も耳に響いてくる」と西倉さんは静かに語る。 終戦から1週間たった45年8月23日、スターリンにより「日本軍捕虜50万人を移送せよ」という極秘指令が出され、これによりシベリア抑留が実行された。 シベリア抑留とは、ソ連が拘束した日本軍の兵士や民間人をアジア最北部のシベリアなどソ連領各所の強制収容所に抑留し、強制労働させた、国際法に違反する行為。極秘指令にはソ連領の強制労働現場が列挙され、各場所への投入捕虜数までもが指示されていた。 西倉さんら日本兵がシベリアに連れて行かれることは、10日間の行軍の時には既に決まっていた。「帰れるはずがないじゃないですか。だまして我々を連れて行った。戦争とはそういううそやだましがまかり通るもの」戦争当時の地図を使い、護送ルートや収容された場所などを示す西倉さん=相模原市で、上智大・佐藤香奈撮影常に死と隣り合わせ 貨車に揺られ、降ろされたのはソ連極東部のコムソモリスクだった。強制収容所で出される食事は、まずい黒パンと具の少ない野菜スープ。量も少なかった。労働のノルマの達成率によって食事の量は変わり、達成しても黒パンの量は1日たった350グラムだった。痩せ細った状態での肉体労働ではノルマ達成は難しく、より少ない量しかもらえない。恒常的な飢えに、誰しもが少しでも多く食事を取ろうとし、すきを見れば互いに奪おうとした。「食べ物を前にすると目の色が違う。人間の本性を見た」 また冬場の厳しい寒さに耐えながらの肉体労働も過酷だった。ソ連の戦後復興事業の一環で、住宅建設や道路工事など、さまざまな労働に従事させられた。 特につらかったのは水道管工事だ。水道管を埋めるために穴を掘らなければならなかったが、地面が凍っていて掘ることができない。懸命に振り下ろしたつるはしは、跳ね返るばかりだった。たき火をして、凍った地面を溶かしながら掘ろうとしても、極寒の中、作業は遅々として進まなかった。 シベリアに強制連行されたのは民間人も含めて約60万人。西倉さんによると、亡くなった約6万人のうち、約70%が最初の冬を越せず、抑留後1年以内に亡くなったという。心身が弱ければ、次々と倒れていく。常に死と隣り合わせだった。西倉さんは今年5月で100歳になった。シベリア抑留時の体験を思い出す表情は沈鬱で、長い時間考え込むことも多かった=相模原市で、上智大・佐藤香奈撮影 何年で帰れるのか。いつまで体がもつのか、毎日考えた。「なんでこんな思いをしているのかなと思った」。しかし「親に会うまでは死ねるか、ここで死んでたまるか」と気持ちを強く持ち続けた。また、仲間同士の励ましも大きな支えだった。死んだ捕虜を火葬する余裕はソ連当局になかったため、遺体はシラカバの木の根元に埋められた。「シラカバの肥やしになっちゃだめだぞ」と互いによく言い合ったという。 体調を崩すこともあった。抑留生活が始まって1年がたった46年8月1日、作業中に39度の熱が出て救急病院に運ばれた。急性胸膜炎と診断され、5カ月間の入院を余儀なくされた。今でも、レントゲンを撮ると肺に少し影が見える。後遺症の一つだ。90歳で語り始めた抑留体験 西倉さんが日本に帰ることができたのは、48年のことだった。実家の農家は継がずに、東京で保険会社に入社した。シベリア抑留中は共産主義の勉強をさせられ、資本主義を真っ向から否定するような思想教育を受けていた。勉強した人から早く帰れるというデマが飛び、西倉さんも必死に勉強した。 思想教育の影響を受け、抑留中に家族に書いた手紙の多くには、共産主義を支持する内容をつづったという。しかし、復員すれば日本は経済的に発展していくまっただ中。全く違う環境だったが、それぞれの環境に「自分が生きるために慣れてきた」そうだ。 定年退職後も長年、年金相談員として北海道から九州まで全国をまわり、年金の勉強会を開いていた西倉さん。抑留体験を語り始めたのは、90歳の時だ。シベリア抑留について、家族にも詳しい体験を語ったことはなかった。シベリアでの日々は「人間らしいようなことはなく、つらかった」ことばかり。「話したところでしょうがない」 しかしある時、西倉さんがシベリア抑留体験者であることを知った知り合いから、年金の話の後にシベリアでの体験についても話してほしいという依頼を受けた。抑留体験について大勢の前で話したのは、それが初めてだったという。「何事もちょっとしたきっかけで事が始まる。自分の人生として、(シベリアのことについて)こうして話せるようになってよかった」。その後、平和祈念展示資料館(東京都新宿区)から声がかかり、本格的に語り部としての活動を始めた。平和祈念展示資料館(東京都新宿区)で自らの体験を語る西倉さん=西倉さん提供やまぬ戦争への憤りをばねに 終戦から今年で80年がたったが、ロシアによるウクライナ侵攻やイスラエルとパレスチナの紛争など、世界各地でいまだに戦争は絶えない。西倉さんは「市民が戦争を望んでいるとは思わない。人が殺し合うことをよしとする人はいないと思う」と話す。西倉さん自身、シベリアで現地の市民から受けた優しさを覚えている。「住民の家に手伝いに行ったら、奥さんに呼ばれて、お昼にじゃがいものバター炒めを作ってくれた。これがすごくおいしくて、忘れられない。こういう親切な人もいるんだと」 また、罪のない市民が命を奪われ続ける現状について、戦争を止められない国際社会への憤りを表すとともに「話し合いで解決してほしい」と訴えた。「なぜ止められない。今すぐ止めてほしい。これでは世界平和は来ないんだと思いつつ、月日がたっていっちゃう」ともどかしさをあらわにする。語り部を続けているのも、戦争をなくしたいという強い思いが根底にある。「絶対、絶対絶対、戦争はだめだ」。強い言葉で何度も繰り返しながら、首を振った。最期まで語り続ける しかし、シベリア抑留の体験を語れる存命者は年々減少している。西倉さん自身も最近、長年仲良くしていた同い年の語り部の仲間を亡くした。シベリア抑留に関する体験聞き取りや資料収集・記録などを行う「シベリア抑留者支援・記録センター」によると、生存しているシベリア抑留者の平均年齢は今年で102歳に達している。シベリア抑留に関するスターリンの極秘命令を報じた1992年6月3日付の読売新聞の記事。終戦後間もなく出されたこの指令で、シベリア抑留という悲劇が生まれたのだと西倉さんは憤りを隠さなかった=相模原市で、上智大・佐藤香奈撮影 また、シベリア抑留について知らない人も増えている。教育現場の多くでは近現代史を学ぶ際、戦時中の歴史や原爆などについては教えるものの、敗戦後のシベリア抑留までは言及しないという。中高の教科書にはかろうじてシベリア抑留の記載があるものの、簡単な説明にとどまる。 「我々が最後だから、いなくなったら、そんな(シベリア抑留のような)ことがあったのかな、と思われてしまうのかね」と西倉さんはこぼした。そして、だからこそできる限り最期まで語り続ける覚悟だと話してくれた。「語りを通して、皆さんのお子さんに私が歩んだようなことを経験させてはだめですよと声を大にして訴えている。体験を聞いた人が、自分の痛みとして考えることが大事」。抑留を体験した西倉さんからの重いメッセージだ。