毎日新聞 2025/7/29 17:58(最終更新 7/29 17:58) 1149文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷舞鶴空襲の犠牲者に献花する参列者たち=舞鶴市の共楽公園で2025年7月29日午前11時50分、塩田敏夫撮影 舞鶴空襲学徒犠牲者慰霊祭(慰霊碑管理委員会主催)が29日、空襲があった現場(舞鶴海軍工廠跡)を見渡す京都府舞鶴市の共楽公園であった。2014年から毎年開催し、「二度と戦争をさせない」とメッセージを発信してきたが、主催者の高齢化で戦後80年の節目の今年が最後となった。 舞鶴空襲は1945年7月29、30日にあった。29日は舞鶴海軍工廠に米軍機B29が原爆の模擬弾を投下、京都師範学校(現在の京都教育大)の学生ら20人を含む97人が死亡。翌30日は米軍艦載機の攻撃で83人が死亡した。Advertisement 学徒犠牲者慰霊碑は2014年に共楽公園に建立され、学徒と引率教員計20人の名が刻まれた。建立に力を尽くしたのが故橋本時代(ときよ)さんだった。京都市立洛北実務女学校の生徒で、舞鶴海軍工廠の水雷工場に学徒動員されていた。原爆の模擬弾投下で全身にガラス片とコールタールを浴び、両目を失明。級友7人が死亡した。 橋本さんは13年に亡くなる直前、「学徒の犠牲者を記録するものを作ってほしい」と、舞鶴空襲の聞き取り調査を続けてきた関本長三郎さん(81)=慰霊碑管理委員会事務局長=に依頼した。関本さんたちは学徒犠牲者慰霊碑建立委員会を結成。多くの寄付が集まり、建立が実現した。 慰霊祭では、体調を崩して参列できなかった小坂光孝委員長(95)のメッセージが読み上げられた。 小坂さんは舞鶴二中(現在の府立東舞鶴高)在学中に海軍の第三火薬廠(舞鶴市)に学徒動員され、人間魚雷「回天」に火薬を詰める作業に従事した。慰霊祭では、繰り返しその体験を語ってきた。 小坂さんは「夢みたいなことが実現した」という慰霊碑建立と慰霊祭開催の歩みを振り返り、「この慰霊祭は敗戦直前の軍事生産を支えた学徒の思いを『矢弾にした』国策を告発し、平和を希求する市民と学徒が会話する所」と記した。舞鶴空襲の悲劇を「今後も語り継ぐ」と述べる太田耕人学長=舞鶴市の共楽公園で2025年7月29日午前11時20分、塩田敏夫撮影 続いて、京都教育大の太田耕人学長(69)が学生9人が死亡し、十数人が負傷したことを振り返り、「この悲劇を大学の歴史の中に位置づけ、今後も語り継いでいく責任を感じている」と結んだ。 遺族を代表し、京都師範学校の学生の時に舞鶴空襲に遭った故内藤昇さんの長男晶彦さん(69)が「父の言葉」を紹介した。内藤さんは21年の慰霊祭まで参列し、戦争の実相を語り続け、亡くなった級友たちに向かって「平和憲法を守り通す」と誓ってきたが、22年に94歳で死去した。「父の言葉」を紹介する内藤晶彦さん=舞鶴市の共楽公園で2025年7月29日午前11時半、塩田敏夫撮影 晶彦さんは、「ドラム缶のひつぎに油をかけ荼毘(だび)にふした」「死んでも無念の思いで口を開いていた友」「戦争は人を異常にする」「子どもや孫を二度と戦争の渦に引きずりこんではならない」「戦争だけは 戦争だけはあかんのや。人と人が殺し合うことだけは絶対にあってはいけない」――と父が残した言葉を語った。【塩田敏夫】【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>