塗り作業をする大内さん=三重県伊勢市で2025年6月3日、山崎一輝撮影写真一覧 伊勢神宮(三重県伊勢市)近くの静かな住宅街。その一角にある自宅兼工房「Urushi一滴」で漆作家、大内麻紗子さん(41)が真剣なまなざしを向けるのは、「濾紙(こしがみ)」と呼ばれる薄い紙で包んだとろりとした漆だ。指先に力を込めて紙をねじり、中の漆をこしてゆく。小さなゴミが取り除かれて、紙の下にたまった漆が美しい光沢を放っていた。 「漆の一滴、血の一滴」という職人たちの間で語られている言葉がある。漆は縄文時代から日本で使われてきた。漆の木は育つのに15年かかり、樹液は1本の木から200グラムほどしか採取できない。人間の血液と同じように大切にするという心意気が込められた言葉に感銘を受けた。Advertisement 2019年に「Urushi一滴」を屋号にしたのは、そうした漆に宿る精神性を知ってもらう機会になれば、という思いからだ。 千葉県出身。服飾専門学校を卒業後、東京のスポーツメーカーにウエアのデザイナーとして勤務した。流行の移り変わりは早く、売れ残った服が処分されることに違和感を持った。次世代に残るものを作りたいという思いが芽生えた時、頭に浮かんだのは学生時代によく通った美術館で見た古来の美術品だった。 一念発起して、会社を退職し、芸術大学進学を目指して予備校へ。そこでさまざまな素材に使えて、大がかりな立体物も作ることができる漆を知った。芸大合格は成らなかったものの、香川県漆芸研究所(高松市)に進むことができた。ゴミを取り除くため、こされてゆっくりと滴る黒色の漆=三重県伊勢市で2025年6月3日、山崎一輝撮影写真一覧 その後結婚を機に伊勢市に移住した。たまたま目にした新聞記事で神職の靴「浅沓(あさぐつ)」を作る男性職人を知る。分業が主流の中、全てを一人で作る全国唯一の職人だった。技術を学びたいと申し入れ、漆芸の技術を生かして手伝いに行った。 「下地に混ぜる水の分量は」など経験の浅い自分にも意見を求める人だった。「良いものを作りたいという気持ちを常に持ち続ける職人の精神を学んだ」 しかし男性は約10年前に急逝。十分学ぶことができなかったという思いから「自分は職人にも作家にもなりきれていないのでは」という考えが浮かぶようになった。 一方、メンバーの一人として活動していた東海の女性職人グループ「凛九」では、自分だけが地域性がないことに戸惑った。漆芸は全国各地にあり、学んだ香川県では漆面に紋様を彫って色漆で埋める地域独自の技術「蒟醬(きんま)」も習得。だが、三重の伝統工芸とは言えないのだ。 そんな思いを抱える自分とは対照的に、凛九メンバーが評価されていくのを間近で見て、「みんなの足を引っ張っているのではないか」と不安にかられることもあった。 そんな中、自分のやりたかったことを改めて見つめ直してみた。子どものころから好きだったのはアート。漆を用いた伝統技法で、アーティストとして独自の表現に挑戦できないか。漆を誰もが手に取ることができるものにしたい、と方向性が定まった。アイデンティティーをテーマに、漆と人工樹脂を使用して作られた立方体の作品。多面性があることを「自分らしさ」と考え、歴史的に対極な素材を使うことで見る人に「自分は何者なのか」という問いを投げかけている=三重県伊勢市で2025年6月3日、山崎一輝撮影写真一覧 伝統やフィールドに縛られていない分、気負いはなく「師匠がいないことも、地域性がないことも今はプラスだと考えて、アートと向き合うことができている」。 23年からは、現代アートのグループ展や公募展にも出品。漆と人工樹脂を使い、「アイデンティティー」をテーマに、約50センチの立方体作品なども制作した。さらに今後は3Dプリンターの使用も計画。デジタル技術と伝統工芸をかけ合わせることで、その境界線から本質を捉えた作品を作りたいという。 奥行きのある深い「漆黒」は、漆でしか表現できない唯一無二の黒。そんな比類なき色のように、自分にしかできない表現を求めて模索する日々が続く。【山崎一輝】