映画の推し事:「木の上の軍隊」が「殺人の追憶」をしのぐ舞台劇の映画化となった理由

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映画の推し事毎日新聞 2025/7/30 07:00(最終更新 7/30 07:00) 2313文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷「木の上の軍隊」©2025「木の上の軍隊」製作委員会 2018年4月23日から25年3月4日までの7年間、韓国の二つのウェブメディアで、計135人の日本映画人にインタビューしてきた。 掲載されるのが韓国メディアなので、導入部でのいくつかの質問はマナーとして固定化するしかなかったのだが、そのひとつが「好きな韓国映画の代表作は」だった。Advertisement 定番の答えが、奉俊昊(ポン・ジュノ)監督の代表作「殺人の追憶」だった。意外だったのは、第92回米アカデミー賞で監督賞を受賞した同監督の「パラサイト 半地下の家族」よりも、「母なる証明」とともに好きな作品として多く挙げられたことだ。ソン・ガンホ、ポン・ジュノの代表作 「殺人の追憶」は、主演の宋康昊(ソン・ガンホ)の「奉俊昊映画デビュー作」でもあり、宋康昊は以降、奉俊昊と共に米アカデミー賞授賞式場へと向かうことになる。 彼が主演を引き受けた決定的な理由のひとつとして、韓国演劇の代表劇団である「劇団 演友(ヨンウ)舞台」出身であることが挙げられるのではないか。「殺人の追憶」は、金光林(キム・グァンリム)が戯曲を書き演出を担当し、1996年2月に初演した同劇団の代表作「私に会いに来て」が原作である。 原作の公演で最もメディアの関心を集めた人物は、演友舞台の代表で、すでに10年の経歴を持っていた俳優の柳泰浩(リュ・テホ)だった。映画では別々の俳優が演じた3人の容疑者を、1人で全て演じて絶賛された。「ゴドー」に通じる刑事コンビの2人劇 しかし、学生時代にソウルで「私に会いに来て」の初演を見た筆者の考えは違った。 というのも、強行犯捜査係出身の刑事班長としてベテラン特有の余裕と年輪を見せつつ、ユーモアと人間的な面貌も持った「キム班長」と、クラシック音楽好きで詩人志望、名門大学出身で科学捜査を目指しながら理想と劣悪な現実の乖離(かいり)に絶望する「キム刑事」、この2人の2人劇だと感じたのだ。2人がドラマを主導する点では、フランスの劇作家、サミュエル・ベケットの戯曲「ゴドーを待ちながら(En attendant Godot)」と一脈相通じるものがある。 実際、原作者の金光林は韓国フランス文学研究の総本山のソウル大学フランス語文学科出身であるうえ、「私に会いに来て」は写実主義劇でありながらも、セリフにはベケットを連想させる風刺と滑稽(こっけい)味があふれている。 映画化にあたって奉俊昊の最大の貢献は、脚色する段階で舞台劇のキャラクターを映像媒体の特性に合わせて再構成した能力であろう。「原作の重みに押しつぶされない映画の決起」とでもいうべきか。韓国でも著名な文豪、井上ひさし 長々と奉の代表作に言及したのは、「輝く2人劇の名作」を見事に実写化し、重みを持つ映画に再生させた「木の上の軍隊」を見て、胸がいっぱいになったためだ。 学生時代、筆者のシナリオ創作ノートの最初のページに書いた「むずかしいことをやさしく、やさしいことをふかく、ふかいことをゆかいに、ゆかいなことをまじめに」という名言を残した井上ひさしは、原案を残した「木の上の軍隊」の他にも「ムサシ」「父と暮せば」「頭痛肩こり樋口一葉」「化粧」「天保十二年のシェイクスピア」などの作品が韓国でも公演されたほど著名な日本の大文豪。 彼の遺作とも言える「木の上の軍隊」は、第二次世界大戦の終盤に沖縄で米軍の攻撃を避けてジャングルに後退し、終戦を知らないまま2年を過ごした2人の軍人の実話がモチーフである。 戦争に負けることを知っていた本土出身の分隊長と、自分の故郷である島を守るために入隊した新兵の対比を通じて、国家主義が起こした戦争の無意味さ、極限状況での人間の尊厳、沖縄の悲しい歴史などを説得力をもって描き出す2人劇だ。日本製ならではの正攻法 しかし、筆者が映画「木の上の軍隊」の導入部で感嘆せざるを得なかったのは(もちろん作品の特性上の違いもあるだろうが)、「私に会いに来て」が、舞台という限られた空間と数人だけのキャストという環境的制約で生じる足りない部分を「演劇的想像力(theatrical imagination)」で埋めたのに対し、「木の上の軍隊」が“メード・イン・ジャパン”特有の誠実な正攻法で勝負していたことだ。 戦争映画特有の緊張感がみなぎる導入部のカメラが観客に開始から30秒で見せたのは、作品の舞台であるガジュマルの木。 一本がまるで小さな森のように生い茂った幹と葉を持っているその姿から、観客はこの作品が製作環境の劣悪さを補完するために演劇的想像力を利用するのではなく、演劇的想像力そのものを実写化しようとする作品だと知ることになる。堤真一と山田裕貴のケミストリー 35歳という若さで才能を光らせる沖縄出身の平一紘監督は、筆者の「ファン心」だけを基準にすると宋康昊を超える大俳優の堤真一と、彼に決して圧倒されない技量を持つスーパールーキーの山田裕貴、2人の俳優を通じて幻のケミストリーを引き出した。 時には熱く、時には冷たく、喜怒哀楽の全ての感情を表現する2人の演技は、彼らのすぐ近くにいる住民がすでに終戦を受け入れているという(そして観客は皆そのおかしくも悲しい状況を察する)悲喜劇的状況と対比され、観客の胸中に深く入り込む。 映画に没入するうちに2時間8分のランニングタイムはあっという間に過ぎ、このような悲しい内容の作品をあまりにも興味津々に見てしまったことを少し不謹慎ではないかと感じてしまうほどだ。 戦争と平和に対する考えを深めるのもよいが、まずは映画体験の楽しさを重視する観客に、誇らしく薦められる一本である。(洪相鉉)【時系列で見る】【前の記事】「ファシズムに抵抗せよ!」元ピンク・フロイドがライブで訴えたメッセージと芸術的ビジョン関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>