24色のペン毎日新聞 2025/7/23 06:00(最終更新 7/23 06:00) 有料記事 1860文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷写真展会場で作品を使ったタペストリーを手にする堂畝紘子さん=広島市で2025年7月21日午後7時14分、佐藤賢二郎撮影 1枚の家族写真がある。原爆ドームを背景に、車椅子に座る被爆者の女性を囲み、子、孫、ひ孫の4世代が笑顔で納まっている。撮影者は広島市出身の写真家、堂畝(どううね)紘子さん(43)。堂畝さん自身、祖母が被爆者の被爆3世だ。 私(記者)がこの写真を初めて見たのは、広島に赴任した直後の4月下旬、呉市の写真展会場だった。タイトルは「生きて、繋(つな)いで―被爆三世の家族写真―」。堂畝さんが10年間で撮影した100組以上の家族写真のうち、約20点が展示されていた。 「こういう撮り方もあるのか」。被爆者単独ではなく、被爆建物や樹木などの風景でも、遺品などの被爆資料でもない。「家族」を撮ることで、世代を越えてつながった命の尊さが、明るく、前向きに表現されていた。 堂畝さんが初めて自分のカメラを手にしたのは高校を卒業した2001年春、18歳の時だった。広島市の繁華街で友人と待ち合わせをし、予定より早く着いた。時間をつぶそうと入ったカメラ店で、店員に勧められるままに一眼レフを衝動買いした。「見たままの世界が撮れますよ」という言葉が響いた。 卒業旅行で訪れた沖縄で第二次大戦の戦跡を巡り、買ったばかりのカメラに収めた。それ以降、全国の戦跡を訪れ、写真で記録することがライフワークになる。 地元の短大に進んだが、目標を見いだせず、すぐに退学。平和教育の映像制作に携わろうと上京した。その時、生活費を稼ぐために選んだアルバイト先が写真屋さんだった。戦跡写真のプリント代を安くあげるためだ。当時はまだフィルムの時代。多いときは現像代が月10万円を超えた。働き始めると社員割引で安く現像できた。 そのうち店長を任され、お客さんから写真について聞かれる機会も増えた。さすがにまずいと思い、東京都内のスタジオに通い、人物撮影の基礎を学んだ。しかし、当時は写真を本業にする気はなかった。 結婚を経て、出産のために10年、単身で広島の実家に戻る。同年、長女・梛子さんを出産。すぐに東京に戻るつもりだったが、…この記事は有料記事です。残り1018文字(全文1860文字)【前の記事】「マフィア政権」との交渉法/元外交官の直言=國枝すみれ関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>