C・S・ルイスepub pdf「でも最後の最後は、あの二人にも幸せになる権利はあると思うわ」と、クレールさんは言った。われわれは、最近ご近所で起こった民事について意見を交わしていた。というのは、M氏が妻子を捨ててN夫人と再婚したからである。それはN夫人自身も前の旦那さんと離婚したうえで実現した再婚であった。この二人が強く惹かれ合っていたことは誰から見ても明らかだった。そのまま愛が冷めず病気もしなければ、二人は見るからに幸せなカップルになるように思われた。たしかに、二人ともこれまでの伴侶とうまくいっていなかった。N夫人は、もともと夫を深く愛していたが、夫のほうは戦場で重傷を負って仕事を失ったうえに、噂によると性機能まで失ったようだった。そんな旦那さんとすれ違うようになり、N夫人は長いこと苦しんでいた。苦しんでいたのはM氏の奥さんも同様であった。子育てと長年にわたる夫の看病でくたくたになったのか、ずいぶんずんぐりしてしまった。もちろんM氏は、それこそスモモの中身だけ吸いとって皮を捨てるように妻をあっさり捨てるような夫ではなかった。実際、さんざん悩み抜いた挙句、こう呟いたのである。「ただ、どう思いますか。ほかに何ができたというのでしょう。最後の最後は、わたしだって幸せになる権利はありますよね。その唯一のチャンスを逃すことができなかったのです」と。この言葉が耳に引っ掛かり、わたしは家に戻りながら「幸せになる権利」について考えていた。まず思ったのは、幸せになる権利というのは「成功する権利」と同じくらいヘンな権利だということだ。そもそも幸福とは、不幸と同じく境遇という境遇が折り重なって実感するものであって、自力ではどうしようもない部分が多い。ゆえに、幸せになる権利を主張するというのは、つまり「背が高くなる権利」や「晴天に恵まれる権利」を主張するのと同じくらいヘンに思われた。たしかに法的に自分の思い通りになることを権利と呼ぶのは分かる。たとえば、大通りなどは私有地に入らないかぎり誰でも通行する権利がある。また、貸しを作った相手がいれば、その相手に返してくれと要求するのは法的な権利であろう。かりにわたしがあなたに百フント貸していた場合、その百フントを返金してもらう権利があるわけだ。よって、妻と別れて近所の奥さんをたらしこむことが法的には禁じられていない以上、M氏にはそのように行動する権利があった。そこには「幸せ」やら何ちゃら言う余地はない。だが、もちろんクレールさんはそういう話をしたかったわけではなかろう。きっと「M氏には離婚して再婚する権利が法的にあったどころか、道義的にもそうする権利があった」と言いたかったに違いない。いわば、古典的なモラリストなわけだ。アクィナスの聖トマス、フーゴー、フッカー、ロックと同じような考え方をしている。「法律は、自然法に基づくべきだ」という考え方である。この考え方には賛同する。この大前提がなければ、文明は成り立たないからだ。自然法を無視した日には、法律が絶対基準となってしまう。そうなったが最後、その法律自体が正しいといえる物差しや原型、つまり基準となる原点が無くなってしまう。ゆえにクレールさんは、由緒ある根拠にのっとって「あの二人にも幸せになる権利はあると思うわ」と発言されたわけだ。これは世界中の文明人を、ことアメリカ人を喜ばせる発言である。アメリカでは人権の1つに「幸福追求権」という権利を位置づけたからである。さあ、いよいよここからが本題だ。そもそも「幸福追求権」という用語が作られたとき、どういう意図が込められていたのだろうか。まさか「殺人してでも盗んででも、裏切ってでも中傷してでも幸福を求めよ」などと思ったわけがあるまい。そんな原則をこしらえた日には、人間社会が滅茶苦茶になってしまう。ということは、合法的手段によるならば幸福を追求しても良い、という原則だったわけだ。つまり「自然法と法律にのっとった合法的手段を用いるかぎり、幸福を追求しても良い」という意味である。一瞬、これは同義反復に聞こえるかもしれない。しかし歴史を振り返ってみると、同義反復してでも判定基準にはこだわっておくべきことが判明する。かつて「権利宣言」を出した連中は、それまで欧州で当然とされてきた政治原理を否定した。つまりオーストリア帝国やロシア帝国、当時(1832年改革法以前)の英国やブルボン朝フランスの国体に挑戦状を叩きつけたのである。それは以下のような主張であった。「幸福を追求する手段(すなわち資本)は、それが合法であるならば、どの人も平等に使えるようにすべきだ。特権階級や地位や宗教の違いによる差別があってはならない」と。今世紀(訳注。20世紀)に入り、国という国がこの原理を拒むようになった事実に鑑みるに、原則を作るときは同義反復してまで判定基準にこだわっておくべきことが見えてくる。 なにせ「幸せを求める手段が合法か否か」という問題は、その問題が生じる事態に相変わらず残っているからだ。まさにこの点で、わたしはクレールさんの意見と食い違うのである。どうも人類は幸福追求権を際限なく持っているわけではなさそうだからである。もちろんクレールさんが幸せについて語るとき、女性として、ないし他の理由で夫婦愛を意図していることは間違いない。これまで関わってきた中で、クレールさんが「幸せになる権利(幸福追求権)」を他の事柄に用いたことは一度もなかったからである。クレールさんは思想的にかなり左巻きとはいえ、それでも面と向かって「金儲けのことしか頭にない残酷な資本家にも幸福追求権があるはずだ」などと主張された日には、拒否反応を起こしたであろう。それに、彼女の大嫌いな呑兵衛たちが、実は飲酒にしか幸福を見出せない哀れな連中であることなど思いも及ばないだろう。もっと言うと、そういう悲しい現実があることを彼女に突きつけられる勇者がいてくれたら、周囲の人たちはどんなに喜んだことか(実際、「だれか突きつけてくれないかしら」と漏らした人がいた)。しかし、彼女が周囲の期待どおりになることはまずあるまい。実のところ、クレールさんは西側諸国がこの40年間しきりに訴えてきた主張をオウム返ししているにすぎないのだ。わたしが若かった頃、進歩的な連中は口をそろえてこう言ったものだ。「敬虔ぶって何になる。性欲だって、衣食住と同様に直視すべき需要じゃないか」と。当時はわたしもウブだったので、この意見を鵜呑みにしていた。しかし後々、この意見のねらいはもっと違うところにあることが見えてきた。なんと、かれらは性欲にのみ、他のどの欲にも許さない態度を取ろうとしていたのである。いつの時代でも、文明の中で生きる人たちは本能を制御し、欲求を抑えるべきことを弁えてきた。事あるごとに自己防衛本能に負けていては、単なる腰抜けか、と笑われてしまう。お金持ちになりたいという欲を抑えられなければ、金亡者め、と蔑まれてしまう。もしもあなたが警衛兵であるならば、睡眠欲とすら闘わねばならない。ところがだ。話が恋愛や情欲となった途端、どんな非情も裏切りも正当化されてしまうのである。かれらの主張する道徳律によると、「もちろん盗んではいけませんよ。ただ、杏子だけは盗んでもいいのです」と言っているかのようだ。これに異論を唱えようものならば、いかに情欲が真っ当なものであって美しく、それこそ聖なるものであるか力説され、おまえなんか愛の喜びを忌み嫌う清教徒みたいなウスノロだ、と叱りつけられてしまうだろう。わたしは、そのような叱責を受け入れない。たとえば、わたしが「少年は杏子を盗んではいけない」と主張したとき、それは杏子や少年を否定したといえるだろうか。むしろ、ただ単に窃盗行為を否定しただけなのではなかろうか。M氏の家庭崩壊について考える際、どうも「恋の道徳律」のような観点から見ているから、あるべき姿が見えにくくなっているようだ。果樹園の実を盗むとき、われわれは「果物固有の道徳律」を破っているのではない。人としての誠実さに背くのである。M氏は信頼に背き、恩に背き、ふつうの人間らしさに背いたのである。さあ、恋の衝動が特別扱いされている事実に気づいただろうか。ほかの事件であれば「ひどい」「不誠実だ」「不公平だ」と咎められた醜態が、恋の衝動となった途端に正当化されてしまうのだ。さすがに、これは違うのではなかろうか。ただし、そう正当化したくなる気持ちも分からないわけではない。人は本気で恋に落ちると、ほかの欲では得られないくらいワクワクする。ほかの願いや欲望でワクワクすることもあるが、そんなのは恋の足元にも及ばない。恋に落ちると、もう冷めることはないと思うし、「彼女」とさえいれば単にドキドキするというよりは、いつまでもずっと幸せになれる気がするからである。だからこそ、万事が一事なのだ。このチャンスを逃してしまったら、ずっとこのさき何のために生きているのか分からなくなってしまう。そう思っただけで、自分のことが死ぬほど可哀想になってしまうのである。残念ながら、この「ずっと幸せになれる」という期待は、たいてい実らずに終わる。大人ならば誰しも知っているはずだが、どんな恋愛感情も過ぎ去っていく(いまこの瞬間に味わっている恋愛感情は別だが)。よく友人が「今度こそ本物の愛だ!」とはしゃいでくる時、その「本物の愛」とやらが実際にどうなってしまうか良く知っている。その「今度こそ」というやつは継続することもあれど、よく途絶えてしまうことを知っている。いわゆるおしどり夫婦といわれる夫婦は、知り合った当初に「本物の愛」と思ったから続いたわけではない。激しい恋をしたからでもない。ただ単に、二人とも(平たく言うと)良い人たちで我慢強く、忠実で優しく、自制できて互いに尊敬し合ってきたからなのだ。ふつうの行動規範が無に帰すような「幸せになる権利」を(恋愛に)認めるとき、われわれは現実から目を背けており、妄想からくる幻を追っている。その幻を追って生きたが最後、現実の人生は必ず不幸になる。幸せになりたくて辛い思いや悲しみに耐えてきたというのに、どんどん幸せから遠のいていくのだ。M氏とN夫人以外のだれもが、数年もすればM氏はふたたび新妻を捨てるだろうと見ていた。またもや万事が一事となるに違いないからだ。どうせまた違う女性に惚れこみ、捨てられる妻よりも自分自身のほうが可哀想と思うに違いないからである。あと2点のみ、付言しておきたい。まず、不貞行為が悪事とされない社会では、最後の最後は女性が痛い目に遭うということである。男どもがどんな軽いノリで歌ったり冗談に花を咲かせたりしていようと、われわれとは桁違いに女性は一夫一妻制に向いているからだ。浮気や不倫が当たり前とされる社会では、われわれ男よりも女のほうがずっと深く痛手を負うことになる。しかも、家庭的幸福を必要としているのは女性のほうなのだ。ふつう女性は年を取ると異性を魅了する美貌が失われていくのに対し、われわれはその逆だからである。正直、われわれの見た目なんて気にされていない。つまり女性は、容赦なく愛を奪いあう戦場において、男の二倍も不利な立場にあるわけだ。求められる水準も高い上に、年を取ったらほぼ勝ち目がない。いや、最近の女性は自分からぐいぐい来たりするじゃないですか、などと憤る連中には同意しかねる。そういう連中は女性よりも哀れだと思う。なにせ情欲だけは太刀打ちできません、と自白しているようなものだからだ。次に、浮気や不倫を認めた場合、われわれはそこで立ち止まることはないだろう。どの分野でも「幸せになる権利」を公認したが最後、遅かれ早かれその原則に万事が呑みこまれていくからだ。つまり、人間のあらゆる欲望が許される社会にむかって突き進むことになるからだ。そのとき、われわれの文明は、いかに最新技術に支えられていようとも廃れていくだろう。そして、(その日にはこう言う権利もなかろうが「残念ながら」)地上から消滅していくだろう。 1963年(英国にて。最晩年の作品)