Добавлен труд 妻子と別れるな

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長司祭アンドレイ・トカチョフepub pdfタクシーに乗っていた。目的地へ向かいながら運転手とおしゃべりしていた。運転手はこう語る。「まだ2か月くらいですかね、タクシーの運転手になってからは……。そりゃあトラックの運転手だった頃は、がっぽり稼いでいましたよ」と、得意気に親指を突き立ててみせた。「毎年、キューバに行ったり、ドミニカ共和国に行ったりしていたくらいですからね」「ほほう、それはそれは。なのに、何が起こったのですか。経営不振とか?」「ええ、経営不振ですね。ただ、変わった経営不振でしたよ。何しろ私生活でしくじったわけですからね」「ご自身が?」「いや、社長ですよ。あたしゃあ何ひとつ問題なかった。社長が再婚しましてね、若い女に乗り換えたわけですよ。で、その女が会社を牛耳ってダメにしちゃった。社員とも経営管理部ともドンパチして、優秀な人材をどんどんクビにして、しまいには借金まで背負いこんだ。つまり、何でもできる女主人だと思いこんでたわけですよ。今となっては元社員はこうしてタクシーを運転し、社長ご夫妻はかなり四苦八苦しているようですよ」「それにしても、なぜ社長さんは若い奥さんをきちんとご指導しなかったのでしょうかね」「いや、ご指導どころかすっかり尻に敷かれちゃって……。それこそ何でもかんでも言いなりで、婦人警官に警棒で指図されているかのようでしたよ」「おやまあ、そりゃまた……。しかし、どこでそんな女に捕まっちゃったのですかねえ」「それがですねえ……、なんでも、ストリップ劇場みたいなところ、とか……」「あ~、納得」目的地までは遠かったので、じっくり話せた。そのおかげで分かったのだが、本件はいわゆるよくある話で、経営不振で会社が潰れたというのは理由の1つにすぎなかった。むしろ社長自身が欲望を抑えきれなくて、身を持ち崩したのが主な原因であった。事業がとんとん拍子でうまく行ったものだから、つい調子に乗ってしまったわけだ。まさに Cherchez la femme(事件の陰に、女あり)ってやつだ。それ以外に何がある。もとはといえば、前妻と苦労してアパートで暮らし、子供も産んで会社を立ち上げて成功させたわけだ。奥さんはいつも支えてくれた。愛があったからだ。苦楽を共にしてくれる存在だったからだ。やがて、アパートから一軒家に移り住み、「イワン君」から「イワン社長」と敬称で呼ばれるようになった。子供たちも無事に結婚させた。奥さんが傍にいてくれたことで、自分自身も立派な男に思えた。ところがだ。そうやってふんぞり返って気が緩んでいたある日、そのすべて整ったところへよそ者が現れた。チヤホヤされて自信満々の肉食系女子だ。狙った獲物は逃さない。まるで週刊誌の表紙から飛び出してきたかのような美女がスポンサー目掛けて特殊攻撃を仕掛けてきたわけだ。その頃には、前妻もすでに年を取り(その点はあなたも同じだ)、見慣れた存在になっていた。もはや「愛情深い雌鹿」でもなければ、「優雅なかもしか」でもない(箴言5:19参照)。それで、諺にあるとおり「髭が白くなる頃、肋骨を悪鬼に撃たれてしまう」(中年になって女性問題に悩まされてしまう。つまり「七つ下がりの雨と四十過ぎての道楽はやまぬ」)のだ。そして禁断の恋に落ちたが最後、一気に万事が崩壊していく。心機一転して若返る代わりに、前妻に泣かれ、毎晩悩まされ、大人になった息子や娘に責められ、財産を分与し、若い女も切るに切れず……。ついに汗水垂らして手にしてきたすべてが、サラサラの砂でできた小屋のように崩壊してしまうのである。そんな話が何百万とあり、だれもが同じ轍を踏むばかり……。西方では、結婚式で特別な誓いを交わす伝統がある。ちょうど東方の修道士が剪髪式で修道請願を立てるのと似ていて、おおかた次のような誓いを発する。「わたしは、あなたを妻として迎え、忠誠を尽くすことを誓います。あなたを若い時も老いた時も、病める時も健やかなる時も、富める時も貧しき時も、愛することを誓います。神よ、諸聖人よ、われを助けたまえ。アーメン」と。花嫁も同じような誓いを立てる。正教会ではこういった誓いを立てないものの、われわれもこの誓いの主旨を当然のこととして弁えていなければならない。誓いを立てようが立てまいが、まさにこう生きるべきだからだ。生きていれば病気になることもあるし、いずれは老いる。まさかそれを知らないわけがあるまい。嫁に迎えたのは永遠に若い天使じゃないし、嫁いだ相手も永久に老いない天使じゃない。そりゃ大変な年月もあるだろうし、お互いに疲れきることもあるだろう。それでも、愛しつづけなければならない。まさに愛ならではの気持ちをこめて愛しつづけなければならない。愛情の極みこそ、優しさと誠実さである。人は年を取れば取るほど、後ろ盾を失ってゆく。女性は男の倍くらい失ってしまうかもしれない。だから、若い頃に撮った写真アルバムとともに妻を捨てて、自分の娘くらいの子と人生の新しい章を歩み始めるのは見苦しい。そんな見苦しい連中がそこら中にいる。ただ、見苦しいことは承知しているので、どいつもこいつも言い訳ばかりこしらえようとする。だが、どんな言い訳をしたって、それこそ裏切り行為である。軍人が忠誠宣誓に背いたり、司祭が異端に走ったりするのと同じ背信行為である。長年連れ添ってきた伴侶を容赦なくズタズタに切り裂くようなものだ。もう愛されなくなった犠牲者を生かしたまま葬って、さっさと快楽にのめりこもうとする。だが、こんな残酷なことをやらかしておいて、いったい何を楽しめるのか。だって、これこそドストエフスキーのいう「子供の涙の一粒」(『カラマーゾフの兄弟』より)ではないか。そんな涙の上に未来の世界平和を築こうって言ったって築けるわけがない。壊滅的な平和になるだけだ。ドストエフスキーが取り上げた涙と、ここで話している涙に違いがあるとすれば、それは文豪が「子供の涙の一粒」を取り上げたのに対し、われわれは「婦人何百万名の涙の大河」について語っている点だ。ブードゥー教で屠る生け贄のごとく、婦人たちの心臓がえぐり取られて滝のように流れ落ちた涙を語っているのだ。そういう婦人とその涙を指して、次のように語った預言者がいる。  あなたたちはこんなことをしている。泣きながら、叫びながら、涙をもって主の祭壇を覆っている。もはや、献げ物が見向きもされず、あなたたちの手から受け入れられないからだ。あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である(マラキ2:13~14)。これを読むと、預言者マラキの時代にもユダヤ人がさんざん不貞を働いていたことが分かる。当時の女性は、現代の女性よりもずっと立場が弱かった。だから、文字どおり「涙をもって主の祭壇を覆う」ことしかできなかった。しかし、主は女性たちの涙を受け入れられ、不倫した亭主の努力や献げ物には見向きもされなかったのである。ローマ帝国の滅亡前にも、ローマ市民は同じような惨状にあった。まさに結婚しては離婚し、離婚しては再婚を繰り返していた。ちなみに、これは文明の滅亡前の典型的兆候である。人々はモラルを感じなくなり、どんどん自己中心的になり、やたらと快感に飛びつくようになる。とにかく世界中が属神的な病気に感染してしまったようだ。どんな代償を払ってでも快楽を得る権利があると確信した連中は、災難の渦中だろうがその前夜だろうが酒宴を楽しもうとする。しかるに、目をあげて地平線を見よ。すでに雲行きが怪しく、天罰は迫っている。 もちろん、どの旦那だって聖人ではないし、ましてや天使なんかじゃない。その点は婦人たちも同じだ。いま世界中の人が山からスキーで滑り降りるようにして新しいソドムへ向かっている。そこは何をしたって許される町、何ひとつ恥じるまでもない世界だ。もちろん、ときどき何に寄りかかったらよいか分からなくなることはあるだろう。でも、いくら時代がモラルのない時代だからといって、良心の声がかき消されることはない。だからこそ、「悔い改めよ」と昔から言われてきたのだ。悔い改めるべきであって、自慢している場合じゃない。もちろん自慢したくなる気持ちも分かるが、悔い改めていくしかなかろう。どうもわれわれは、21世紀のピカピカ光る歓楽街で暮らしているうちに、一昔前にできたことすらできなくなってしまったようだ。実際、子供を産むことができなくなった。生まれた子供を育てることは、もっとできなくなってしまった。老年期まで夫婦で連れ添うこともできなくなったし、家族全員で物を共有し合うこともできなくなった。そういえば、祝賀会で歌うことすらできなくなったではないか。テレビの音量にすべてかき消されてしまうのだ。かりに何か歌えるとしたら、40代の婦人がまつ毛に滲んだアイシャドウを拭きながら、こんなふうに口ずさむことくらいだろう。「かつて甘い実をもぎ取った日々は一緒だったのに、いま苦い実をもぎ取っているのは私一人……」と。2016年12月30日