目の前に立って泣いていたのは、若くて愛想のいい女性でした。「神父さん、もうやんなっちゃって……。結婚して子供を産んで家庭を作りたいのに……、時間ばかり過ぎて30代になったのに、相手がいないのです。いるとしたらヘンな男ばかり。呑んだくれか、チャラ男か……。ひどくないですか。とにかく寝たい、ぱっぱとやらせろ、みたいなのばっか……。ちゃんと付き合ってくれる人すらいないのに、結婚まで我慢してくれる王子様なんているわけないじゃないですか。そんなんでどうやって信者として生活できますか。修道院に入るとか? でも修道女になんてなりたいと思ったこともないし、そんな力もありません。このまま一人ぼっちじゃ寂しすぎますよね。どうしたらいいのでしょう」そう言って泣いていました……。文字どおり泣いていました。愛想のいい優しい女性が誰にも必要とされずに泣いているのです……。どうやって慰めてあげればよいのでしょう。わたしにも分かりませんでした。いったい世の中はどうなってしまったのでしょう。言い当てられる人はいませんか。伝染病なのか、熱病なのか、はたまた集団狂気なのか、何とでも名づけてください。ほぼ毎日のように、何気ない会話や痛悔機密(懺悔)を聴きながらおかしい精神症状を目にしており(重症も多いですよ)、心を痛めているのです。いや、精神病でおかしいのではなく、道徳的におかしいのです。たとえば、20~30年も連れ添ってきた夫婦なのに、頭がおかしくなっていく……。夫がバケモノになって家庭を壊したり、妻が単なるメスになり下がってよその夫を奪ったりしていくのです。しかも、そういう話が尽きないではありませんか。これは子供が3人いる奥さんから聞いた話ですが……。持ち家もあって旦那のビジネスも順調で、結婚して20~30年も経った家族なのに、ある日、旦那に髪を引っ張られ、イコンの前まで連れてこられ、首を絞めて怒鳴られたそうです。「お前なんか殺してやる! イコンの前で誓ったぞ」と。発狂して白目を剥いたその顔は、悪魔の顔そのものだったという。「でも妻側の言い分だけでなく、夫側の言い分も聴いてあげなきゃね」と言う人がいるかもしれません。もちろん、夫側の言い分だけでなく、ありとあらゆる男女関係を耳にしてきましたよ。いろいろありすぎて聞き飽きたくらいですが、どれもこれも身の毛のよだつ話ばかり。とにかく本物の信仰がないのです。神様がいることも信じちゃいないし、永遠の命があることも信じちゃいないし、人間の尊厳も信じちゃいない。だから、齢40にもなったおっさんが、すでに多くのことを成しとげて生活も安定してきたというのに、ある日突然こんなふうに思うのです。「ああ、こうして単調な暮らしのなかで老いていく……。体力も気力も衰えたし、もうすべてどうでもよくなっていく……」と。で、パニックに陥るわけです……。そして「強烈な刺激」が欲しくなる。強烈な刺激は悪魔からもらえるだけでなく、もはや大量生産される時代になりました。「気持ちよく」過ごせる産業が興り、夜のクラブや「お部屋」があちこちに用意され、性欲を満たすための旅行や売店や出会い系サイトも出現しました。そうやって、大衆を沼らせる肉慾を愛と名づけて嘲笑っているのです。いったいなんたる狂乱でしょう。「もう愛が冷めたんです。それをどうしろって言うのですか」と肩をすくめたのは、白髪の混じった紳士でした。なるほど、さようでございますか。25年間も愛してきたというのに、急に愛が冷めた、と。そして、この愛のない心をどうしろと言うのか、と。「ないものはないのだから、仕方がないでしょう」と……。正気ですか。いったい何を血迷ってぼやいているのですか。さらに言うと、どうも男のほうがおかしくなりやすいのです。つまり中年になるまで自制してきたタガが外れてしまい、文字どおり人間性を失っていく。たしかに男のほうが難しいのかもしれません。女はよく家事や子供の世話に追われ……、それだけで道徳的に守られているからです。べつにしっかりした信仰を持っていなくても、ある年齢まではそういった忙しさのおかげで操を守りやすいからです。いっぽう男は、仕事して業績を積んで成功しなければなりませんよね。そして、年が行ってだいたい成功を収めてしまうと、じゃあこの後は何がある、オレの人生って何だったのだろうという自問に陥るわけです。だって、人間は何にでも慣れてしまいますからね。せっかくロンドンの豪邸に住んで高級車を乗り回しているのに、まるでボロ屋に住んでポンコツ車をとばしている気しかしない。そのうえ何か誇れるもの(過去の栄光、現在の地位など)があった日には、もはや生き甲斐がなくなります。本当になくなります。なぜなら人間には体と霊(たましい)があるだけでなく……、神という存在があるからです。ゆえに神との関わりを断つならば、自分自身を蝕んで無能にし、人生という名の祭典を突っ走る馬上の狂人と化してしまうのです……。しかも頭部を取っ払ったまま走ることになるため、見境なく走ることになる。そして、実際にどこへでもホイホイ付いていってしまうのです。ぜひとも教会規程や民法を紐解いてみてください。それらに明記されている家族法を見ると、どの時代にも考えさせられる規程があるではないですか。たとえ実行しきれなかったとしても、ハッと我に返るような珠玉の規程があるものです。たとえば、聖大ワシリイの規則をご覧ください。煎じ詰めれば以下のような規則です。「重大な理由もなく離婚した者に、再婚する権利はない。ひとたび家庭を壊した者は、主に託されたものを維持できない身を実証したからである」(「聖大ワシリイの第2規程書、48」)。厳しい言葉ですが、正気に返るには十分でしょう。そもそも結婚というものは、神が制定したものなのです。たとえ教会で婚配機密を受けていなくても、法的に籍を入れた夫婦であれば神に制定された夫婦です。お互いに責任をもって守ろうと努めるだけでなく、信仰があってはじめて守りきれるものが家庭生活という賜です。逆に、信仰がないと守りきれないものなのです。かりに結婚が「人間が制定した社会的合意」でしかないならば、人間の手でぶち壊すこともできますよね。どうしてダメなのですか。だって相手が泣こうがわめこうが、誠実だろうが子供がいようが裏切ってしまおうが、しょせん人の世に「よくあること」じゃないですか……、もしも神がいないのであれば……、結婚なんて婚姻届の紙っぺらにすぎないし、甘っちょろい慣習にすぎないじゃありませんか……。ドストエフスキーに出てくる登場人物が言いのけたように、「もしも神がいないのであれば、我こそ神だ」ということになりましょう。つまり、何をしたっていいわけですよ。そうやって全部ぶち壊し、深淵のかなたへ突っ走っていく。それでも良心の声を、つまり心奥に響く神の声を欺くことはできません。だから、涙を流してやってくる女子大生がいるのです。「あの……、子供ができちゃいました。既婚者の子です。なのに、もう全然取り合ってくれなくて……、奥さんとは別れてくれそうにないし……。お金もくれなくなって、学費も払いきれなくて……。いったいどうしたらいいのでしょう」と。いったいどうしたらいいのでしょう。あなたは、この質問にどう答えますか。それもこれも「信仰なんてなくたって大丈夫。そんなのはどうせ作り話でしょ」と、高をくくっていたせいなのです。どこもかしこも誘惑ばかり……、さっさと罪を犯してしまえと駆り立ててきます。そう駆り立てられて、罪の奴隷になっていく人が後を絶ちません……。しかも民主主義だの自由だのと声高に叫んで、人間とはこう生きるべきだ、と来た。そんなのは、子ザルが大蛇の前で御託を並べているようなものじゃないですか。つまり最後の最後は、やはりその人が何を信じているかに掛かってくるわけです。われわれ(訳注。ロシア人)は、とにかく信仰なく生きることなどできませんよ。きちんとわきまえて実践していく信仰なしに、つまり正教の信仰なしに生きることなどできませんよ。どうしてこんな単純なことが分からないのでしょう。だって、どこまでも追求する国民性じゃないですか。何事においても本質まで突き詰めようとする。そして、その本質をただ哲学体系にするだけじゃ気が済まず、実生活で体現せずにいられない……。だから、身をもって共産主義とは何ぞやということを全世界に示し、世界中の人々を震撼させてきたのです。しかも現在では資本主義を「めいっぱい」体現し、人生から取っていいものも取っちゃいけないものも全部もぎ取るようになってしまった……。こんな無様なありさまで「異教徒ではありませんよ」ですって? からっきし異教徒ではないですか! 肉体に仕えているではないですか! 失神するまで酔いしれ、頭を床に打ちつけるほどの醜態ぶり。幸福を、この世の幸福をもっとくれ、幸福感を味わえるなら何もかも惜しまない、必要なものは全部差し出そう、そうだ、家族さえ差し出そう。どうせ家庭の幸福なんてつまらないし、もっともっと強烈な快感に酔いしれていたいのだ、と。そうやって、男はおろか女までおかしくなっていく時代になりました。ちょっといざこざや壁にぶち当たっただけで、もう耐えられない。そんなのよくある生活苦にすぎないのに……。夫人は、こんなふうに思うのです。「ああ、こうしてつまらないまま人生が終わってしまうわ。あんなに美人ともてはやされていたのに、年を取ったら全然チヤホヤされない。生まれつき美人だし頭も切れるし、それこそ『勝ち組』になってしかるべきなのに……」と。これって、まさに遊びほうけている男どもと何ら変わらない胸中ですよね。要するに「人生の残り時間が減っていく。だから、今のうちにハラハラドキドキすることをもっとしたい」と。もっとしたい、と……。こういった人生観の根っこには、えげつないエゴイズムや不信仰がくすぶっているのが見えますか。「何はさておき神に喜ばれよう」としないから、いつまで経っても人生が満たされないのです。ときどき婦人が見境なく恋に落ちて、旦那さんを捨てることがあります(しかも誠実な良夫を捨てるのです。ただし、その婦人が望んだほどの成功者にならなかったことが原因らしい)。そのような場合、たいてい「運命の人」に出会ったから離婚するのではありませんよ。単に現状の生活に不満で、神から授かったものを大事にしたり感謝したりできないから離縁するのです。そして、浮世の海へ飛びこんで「自由に」泳ぎはじめます。とはいえ、それでもまだ穏やかな港へ向かって泳いでくれればいいのです。たいていはサメとなって餌食を探すようになる。そうなると、もはや「餌食」が人の物かどうかなどどうだっていい。何としてでも餌食を「もぎ取り」、誘い出して食いつくさなければ気が済みません。いつだったか、中年の奥さんのお宅を成聖しに行ったことがありました。その奥さんの旦那は「連れ去られて」しまったのですが、連れ去っていった張本人は、なんと奥さんが自宅に招いて信頼しきっていた近所の友人だったのです……。その友人は、まず自分の夫と離婚したのでした。どうしたことか「気に食わなくなっちゃった」らしい。離婚したうえで、ご近所の旦那を連れ去りました。そして二人して古い家を売り払い、今では見知らぬ土地へ行って新しい「家庭」を築いているそうです。こういった事例が後を絶たないのです。そんなふうに夫を騙し取られた奥さんの痛々しい姿を目にするたびに切なくなります。いっぽう「略奪」していった二人は、どれだけみっともないことをしたか分かっちゃいないし、何ひとつ感じちゃいない。この点が、まったくもって絶句。もし分かったり感じたりしていたら、ろくにご飯も喉に通らなかったことでしょう。ただし滑り出しは良くても、やがて……、この「サメ」さんの人生はどうなるのでしょう。さしずめ「幸福のかけら」はもぎ取ったわけです……。噛みついて略奪したわけです……。しかし時が流れ、鏡を見るたびに白髪や皺が増えるようになると……、なんて恥の多い人生を送ってきたことか、こんなんでどうやって最後の審判に立つ、という不安に駆られます。情欲が冷めていくにつれ、愛人だった相手とも互いに心理的な距離ができていく。そのどこに幸福があるのでしょう。近年は、妻帯者と交際してはばからない女の子が増えてきました。それでも罪深さに涙をため、色々ごまかしてきて良心の呵責に疲れ果てて(痛悔機密《懺悔》に)やってくるならばいいのです。たいていは客観的に事実を述べて済ますだけ、しかも薄笑いを浮かべていることすらあるじゃないですか。ホント背筋が凍りつきますよ。すでにありとあらゆる罪を聞くのに慣れた身ではありますが……。かわいらしい女の子の皆さん、自分が何をしているか分かっていますか。自分自身を蝕んでいることを理解していますか。よその家庭を壊すことは、死に値するほどの重罪なのですよ。……と説明すると、「べつによその家庭なんか壊しちゃいませんよ。ただ時々、会ってるだけですし」と答えてくる。しかも、眉ひとつ動かさず淡々と言いのける。つまり、次のように信じきっているわけですよね。「そりゃ離婚させてしまえば家庭を壊すことになるけれど、こうやって『バレないように』会っている分には問題ないじゃない。もちろん、あんまり良いことじゃないけれど」と。考えが甘い! 分からないのですか。そもそも既婚者を欲しいと思った時点で、すでによその家庭に侵入しているのです。禁断の恋が芽生えた途端、二人のあいだに罪深い緊張感が走ります。この緊張感は、無意識のうちに相手を求める目線や台詞や「ふとした」接触となって表に出てきます。そういうのがすべて、すでによその家庭を壊しているのです。それだけではありませんよ。最も「ふわふわした」「すてきな」想いから、最も恐るべき裏切りや堕落や不倫が始まるのです。心ときめくロマンを楽しんでいるつもりでも、実は悪霊の罠に掛かっている……。そして、ドロ沼に堕ちたが最後、かつて「ときめいて」いた日々なんぞ嘘のようにしんどい。人は堕落すると、そういうどうしょうもない目に遭うのです。 親愛なる女子の皆さん……、男子諸君……、縁組みして夫や妻となった皆さん。つねに自分がどういう想いを抱いているか注視しようではありませんか。甘ったるい罪を味わったが最後、人生が一気に転落していくことを忘れてはいけません。必ずや、泣いても泣いても取り返しのつかない年月が待っているのですから。 先ほどの女の子との会話は、次のように続きました。「なるほど、会ってるだけ、ですか……。失敬、あの、お名前は……」「アルラ(ないしマーシャ、スヴェタ、ターニャ……等々)と申します」と、若い女の子は答えました。「ああ、アルラさん。では教えてくださいな。あなたは、幸せな家庭を持ち、優しい旦那さんや子宝に恵まれたいですか」「はい」「では、その旦那さんと力を合わせて少しずつお金を貯め、大変なときも二人三脚で乗り越えて愛を深め……、家庭を築き……、キャリアも積んで…、子供とかも育てて……、そんな満ち足りた人生を送りたいですか」「ま、ふつうそうですよね」「では、そんなあなたが25年後にどうなるか考えてみましょう。25年も経てば、きっと『だいぶ年を取ったな』と思うことでしょう。それでも『こうして何とか無事に生きてこられて良かった。家族もできたし子供もいるし、優しくて誠実な旦那さんもいる』と思うことでしょう。そして、そういう思いで老いていく心身を慰めているとき、ふと旦那さんの前にこんなすてきなアルラちゃんが現れたらどうです。ぜひとも現れてほしいな、と思いますか」沈黙。「そして、その子が現れて以来、旦那さんは夜おそく帰るようになり、わけの分からぬ手振りをして目も泳いでいて……、妙にピリピリしてとげとげしくなり……、なぜか出張ばかりするようになって……、どんどん当たり散らすようになり……、そんなある日、わたしなんか旦那さんに要らないどころか、すでにうざったいババアでしかないんだと分かったらどうでしょう。そんな思いをしたいですか」「いやです」「だったら、なぜ自分が嫌なことを人にするのですか。単純な話ではないですか。これこそ神様の戒めですよね……。ふつうに良き人生を送るうえで欠かせないルールですよね……」「それはそうかもしれませんけど、あの人はとっくに奥さんとうまく行っていないんです……」「だったら、なおさらではないですか。福音書にも書いてあるでしょう。主は『傷ついた葦を折らず、くすぶる灯心を消さない』(マタイ12:20)と。つまり、造物主ご自身が人間の自由を尊重されているのです。決して人間関係に割って入ることはなさらない。人々が自由に選択できるように可能性を残しておられるのです。そう、ゆらゆら動く天秤をごらんなさい。風にちょっと吹かれただけで、右にも左にも傾くじゃないですか。そのほんのちょっとで「救われるか、滅びるか」が決まっちゃうのです。で、その今にも壊れてしまいそうな夫婦生活という繊細な布地を、何十年もかけて織ってきた布地を、あなたは一瞬でぶち破り、うまくいけば何とかつなぎ止めて今後も使えたかもしれない布地をずたずたに切り裂いてしまっているのです。わかりますか、これがどれだけ重い罪であることか」 どうか周囲を見渡して、いま起こっていることをご覧ください。もはや世界中の人が堕落して病んでおり、わたしたち(訳注。正教徒)をも同じ人間にしたいと思っています。敬虔な信者が目に入ることで、良心が痛んで自分自身の罪が暴かれてしまわないように……。いや、わたしたち自身も、すでに人様の罪を暴けない分際になり下がってしまいましたよね……。ただ教会だけが、人には暴けない罪を暴き出してくれています。いまでも美しいものを美しいと言い、汚れたものを汚れと呼んでいるのは、そして人は天に向かうべき存在だと教えているのは教会だけです。現代人は、そんな天命なんか思い出したくもない。良心に咎められることなく、もっとやりたいことをいろいろやりたい、と思っています。ただ教会だけが、滅んでいく人間に何かがおかしいぞと気づかせ、「悔い改めれば神様に憐れんでもらえますよ」と励ましているのです。今後とも、わたしたちの口を塞ぎたい連中は、なんとか引きずりおろして自分たちと同類にしようと近寄ってくるでしょう……。そのことを覚悟してうろたえず、ひたすら発信しつづけねばなりません。一気に人間性を失っていく「先進的な人類」の前で、ひるんでいる場合ではないのです。 負けてはいけません。家族は、死守すべきものなのです!半年前くらいでしたか、聖堂に中年の男がやってきました。自由奔放に生きてきたので、とうとう奥さんに逃げられたのでした……。子供も連れていかれたうえ……、奥さんにはもう新しい連れがいるようでした……。はっきり言って、おしまいでした。よくある家庭崩壊の話です。しかし突然、男はいたたまれなくなります(もちろんどこかで祈ってくれていた人がいたからでしょう)。そして、ぼうっとしたまま聖堂へ着いた後、「いや、あきらめるわけにはいかないぞ。神様に助けてもらって悪霊どもと闘い、何としてでも家族を取り戻すのだ」と決心したのでした。悔い改めたのです。いいですか、よくあるように「しでかした罪を口述した」のではありませんよ。本気で「変わろう、違う人間になろう、神に導かれて生まれ変わろう」と決意を固めたのです。そして、こう自分に言い聞かせました。「実際、どうしょうもないクズだ。それでも神様の前では夫となり父親となった身だ。ならば、夫らしく父親らしく振舞ってみようじゃないか」と。こう言い聞かせた後、別れた奥さんのもとへ向かいました。何度出向いても、玄関にすら入れてもらえません。いくら花束を手渡しても、ゴミ箱に放られてしまいます。子供を見たくても、一向に会わせてくれません。ついにある日、遠目に奥さんが新しい連れと一緒にいる姿を目にしました。心が真っ二つに張り裂けました……。それでも、こう祈りました。「主よ、こうして悔い改めているのはご存じのとおりです……。どうかお赦しください、どうか夫であり父親でいさせてください……」と。そして、雨が降ろうが槍が降ろうが耐えました。ひたすら電話をかけつづけ……、会いに行き……、話し合えるように工夫し、花束も贈りました……。ふんぞり返って贈ったのではありませんよ。愛をこめて贈ったのです……。そして、ついに奥さんを振り向かせることに成功したのです。2日前のことでした。奉神礼の後、その男が近づいてきてひとこと言い残しました。「神父さん、よりが戻りましたよ!」と。司祭にとって、この言葉がどれだけ嬉しく響いたことでしょう。いや、司祭が何でしょう。天上では99人の義人よりも、悔い改めた1人の罪人のためにより多くの喜びがあるのですから。たしかにこの中年男は、みずから夫婦という「ひとつの体」を壊し、奥さんも不貞行為に走って完全に家庭崩壊したのでした。しかし主は、灰の中からでも壊れた体を蘇らせることがおできになります。信仰さえあれば、悔改さえすれば、愛さえあれば主の力が働くのです。こんな名句がありましたよね。「意欲がある人は、可能性を探す。意欲がない奴は、理由を探す」と。わたしたちは、どうして理由ばかり探しているのでしょう。家族という「重荷」を取り除こうとするのでしょう。この重荷こそ、本当は「軽いもの」であることが分かっていないのです。家族を捨てる理由なんぞ、見つけようと思えばいくらでも見つけられるじゃないですか。そんな見せかけの理由があれもこれも積もった挙句、家族が崩壊してしまうのです。しかし、崩壊しきった灰の中からでも、何とかして夫婦でいようとしつづける人は見上げたものです。心から夫婦でありたいと願い、何とかして和解しようと工夫し……、いちど誓いを発した身を忘れず……、神の慈しみに望みをかける人は見上げたものです。そのような心構えは、もちろん神様に喜ばれます。もうどうにでもなれと引きずられていく惰性よりもよっぽどましです。闘士は、神に見捨てられることはありません。たとい崩壊した家庭でも信仰の火種がかろうじて残っていれば、主によみがえらせてもらって称えられるでしょう。ぐっと耐えて神に望みをかけてきた信仰に対して、大いなる恵みを授かるに違いありません。いまの時代、何が何でも家族を守ろうとする生き方は、まさしく死闘の道です。それは愛の労働であり、多くの罪を消してくれる道です。どうか、負けないでください……、たやすく負けないでください、ぐいぐい来られても負けないでください。何があっても負けないで! 神様に助けてもらいながら、家族のために闘ってください。ぜひとも妻であり母親でありつづけてください。夫であり父親でありつづけてください。想いのうちでも行動でも、たとい慾にまみれた世の濁流に呑まれていようとも、いちど授かった身分でありつづけてください。そのようにして正義を貫くならば、必ずや主から恩寵を授かるでしょう。そしてそのとき、この世には家族を守ることよりも大切で美しいものはないことを悟るでしょう。2011年5月20日