毎日新聞 2025/10/8 12:45(最終更新 10/8 12:45) 1098文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷幕末に建てられたとされる旧八屋村の呉服商「綿芳」の店舗兼住宅=福岡県豊前市八屋で2025年7月9日午後4時0分、松本昌樹撮影 中津街道は江戸時代初頭、豊前の国を治めていた細川忠興によって整備された小倉(福岡県)、中津(大分県)の両城下を結ぶ約52キロの幹線道だ。この中津街道の道中で「往時の面影が残っているのはどこか」と聞いた時、何人かの郷土史家が椎田町湊を挙げた。 国道10号を南下して福岡県築上町役場、JR椎田駅を過ぎ、真如寺(しんにょうじ)川を渡って左に折れると椎田湊。船着き場近くには酒造業や廻船(かいせん)問屋などが軒を連ねた。今も通りの両側には白壁が美しいかつての造り酒屋などの旧家が並ぶ。国道を車で行き来しているだけでは気づかない趣のある景観だ。Advertisement 角田(すだ)川を渡って築上町から福岡県豊前市に入り、JR豊前松江駅を過ぎてしばらく進むと旧上毛、築城の郡境だ。両郡は1896(明治29)年に合併。それぞれの頭の文字を取って築上郡となった。 その先の四郎丸で街道は山側と海側に分岐する。山側は宇佐神宮に向かう奉幣使が通った勅使街道(上往還)、海側は中津城下へ向かう中津街道(下往還)だ。上毛・築城両郡の郡境標柱の前に立つ森田郁生さん=福岡県豊前市松江で2025年7月9日午後3時37分、松本昌樹撮影 海側を進み中川を越えると間もなく、かつての在郷町、八屋の入り口だ。1802(享和2)年に中津街道を歩いた尾張の商人、菱屋平七は、旅日記「筑紫紀行」で八屋の様子を「屋並の様きたなげにて、宿屋茶屋もなく、ただうどん屋一軒あるのみ」と記した。 だが、八屋出身で郷土史家の森田郁生さんはこれに強く反論。「八屋村は求菩提山方面からの道が中津街道とクロスして海側の八屋浦に続くタテの筋を中心に発展した。平七は短いヨコの筋を一気に通り過ぎただけ」と強調した。 この辺りにも幕末に建てられた呉服商「綿芳」の店舗兼住宅など、旧街道の面影が漂う町並みがよく残っている。中津街道の景観を今に伝える建造物として、2021年に国の登録有形文化財に登録された浦野醬油(しょうゆ)醸造元にあるカフェでひと息入れるのもいい。 続く宇島は、松江や八屋に比べ歴史的には若い町。その宇島が繁栄する契機となったのは、中津城下にあった小倉藩の飛び地、小祝浦(現在の大分県中津市)で起こった漁業などを巡る紛争だった。小倉藩は、問題を解決するため赤熊海岸の「鵜(う)の洲(しま)」(その後、宇島と改名)に新港を築き、小祝浦の230戸を含む計330戸を移転させた。 1828(文政11)年に港が完成すると宇島の商業は活況を呈した。宇島港を拠点に廻船問屋や米穀商を営むなどして財を築いた万屋(よろずや)の主人、小今井潤治は小倉藩屈指の豪商となった。旧街道沿いの教円寺(豊前市赤熊)は、小今井が寄進した寺で、高さ13メートルの鐘楼と山門が往時の繁栄をしのばせる。【松本昌樹】あわせて読みたいAdvertisement現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>