毎日新聞 2025/10/11 07:00(最終更新 10/11 07:00) 有料記事 3457文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷詩人で作家の石牟礼道子=熊本市で2015年4月23日、田鍋公也撮影 不ぞろいなままつながる。違うからこそ言葉を交わす――。 そんな個人と集団のありようを模索した女たちがいた。 石牟礼道子、中村きい子、そして森崎和江。 1958年創刊の雑誌「サークル村」に集い、九州で執筆した3人の作家だ。 集団は個を束ねて力を得る一方、「大義」のために同化を強いる。男性中心の社会運動は性差別や性暴力の温床にもなりうる。一つの運動体だった「サークル村」とて例外ではなかった。 「3人は、私と他者は違うということを前提に、それでも共にあることはいかにして可能かを問い続けた」と大阪大の渡邊英理教授(日本語文学)は語る。 現代的な課題でもあるこの問いを、3人の表現を手がかりに考えたい。石牟礼、中村、森崎をつないだ雑誌 石牟礼と森崎は27年生まれ。石牟礼は郷里の熊本で執筆を続け、植民地下の朝鮮で生まれ育った森崎は福岡に足場を置いた。ともに90歳代まで生き、詩やルポルタージュなど多数の著作を残した。 中村は28年生まれで幼い頃から体が弱く、生前の著作は小説2作と少ない。地元・鹿児島で68歳の生涯を閉じた。 そんな3人の結び目となったのが「サークル村」だった。 戦後、市民が職場や地域で詩や文学、音楽などの創造に励んだ草の根の文化運動の一つで、筑豊の炭鉱地帯を拠点とした運動の交流誌。3人はいずれも文筆活動の最初期に文章を寄せている。 例えば石牟礼が寄稿した水俣のルポルタージュ「奇病」は、後に発表される大作「苦海浄土」の一部を構成。炭鉱で働く女たちの声を聞き取った森崎の連載「スラをひく女たち」は61年のデビュー作「まっくら」の原型となった。 58年の雑誌創刊には詩人で活動家の谷川雁のほか、森崎が唯一の女性として関わった。だが編集委員は男性ばかりで女性の書き手は少数派。「サークル村」の「三才女」とも呼ばれた3人の表現活動に、渡邊さんは新刊「到来する女たち」(書肆侃侃房(しょしかんかんぼう))で光をあてた。 というのも、…この記事は有料記事です。残り2636文字(全文3457文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>