毎日新聞 2025/10/11 06:15(最終更新 10/11 06:15) 1105文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷山国川に架かる山国橋。福岡県側の橋脚の下部には円形の空間を設け、県境が分かるようにしている。奥に中津城の天守を望む=福岡県吉富町広津で2025年7月10日午後0時17分、松本昌樹撮影 江戸時代初頭、豊前の国を治めていた細川忠興によって、小倉(北九州市)と中津(大分県)の両城下を結ぶ約52キロの中津街道が整備された。往時よりさまざまな人や文物が行き交った道のそこここには、今もなお旧街道の面影が漂う古い町並みが残る。郷土史家に案内役をお願いし「歴史の道」の探訪にでかけた。 福岡県豊前市三毛門から、のどかな田園風景に溶け込むように延びる旧街道を進むと、御界(みさかい)橋という小さな橋にさしかかる。下を流れる御界川が豊前市と福岡県吉富町との境界で、江戸時代は、この川が小倉・中津両藩の藩境だった。Advertisement かつて藩境の旧街道脇に建っていた「従是(これより)西小倉領」と刻まれた標柱は100メートルほど吉富町側に入った個人宅の庭に、「従是東中津領」の標柱は約700メートル南の八坂神社(同町直江)に移された。「従是西小倉領」の文字が刻まれた藩境標柱と太田栄さん=福岡県吉富町直江で2025年7月10日午前11時10分、松本昌樹撮影 旧上毛郡のうち、現在の福岡県上毛町の一部と吉富町は、江戸時代まで中津藩領だった。両町は今でも経済や文化などの面で中津市との結びつきが深く、かつて県境を越えた合併が検討されたこともあった。吉富町出身で郷土史家の太田栄さんも自転車で山国川を渡り、大分県立中津南高へ通った。 藩境は1867(慶応3)年、約200メートル東を流れる佐井川から西側の中津領と、現在の県境である山国川の中州に飛び地があった小倉領を替えることによって、佐井川の中央に変更された。 その佐井川を渡って約1キロで山国川。ゆったりとした流れの向こうに中津城(大分県中津市)の天守閣(1964年に建造された模擬天守)が見えてきた。 江戸時代、山国川を越える手段は船渡しで、大名や幕府の役人が渡った下流側の「小犬丸渡し」と、下級藩士や旅人が使った上流側の「広津渡し」の二つのルートがあった。山国川の河口に当たるこの付近は、急な瀬や満潮の増水があり、小倉を出た旅人には最後の、中津を出発した人にとっては最初の難所だった。藩主が乗った大型の御座船は潮が満ちてこないと航行できなかったことから、吉富町側の小犬丸には潮待ちをする中津藩の御茶屋があった。 山国川に架けられた最も古い橋「山国橋」を渡って中津市へ入る。江戸時代は小舟を並べて綱で結び、その上に板を敷いた舟橋。1904(明治37)年に木造の橋(通称・国道橋)が架かり、34(昭和9)年には現在のコンクリート橋が完成した。 旧街道の終点となる小倉口に入って風情のある城下町を歩く。城の周辺には、福沢諭吉旧居や、黒田官兵衛に中津城で謀殺された宇都宮鎮房(しげふさ)と家臣たちの悲劇が残る合元寺(通称・赤壁寺)など旧跡もあり、歩いてきた道中を振り返りながら散策するのもいい。【松本昌樹】あわせて読みたいAdvertisement現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>