高島博之山田奈緒毎日新聞 2025/10/9 00:00(最終更新 10/9 00:00) 1069文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷結婚60年を前に、昔のアルバムを見つめる昭和天皇と香淳皇后=皇居の宮殿芳菊の間で1984年1月19日撮影(宮内庁提供)写真一覧 宮内庁は9日、昭和天皇のきさき、香淳皇后(1903~2000年)の生涯を記録した「香淳皇后実録」を公表した。 14年公表の「昭和天皇実録」と対になる公式記録。「おきさき教育」の全体像、戦況や銃後の状況を把握しようと努める戦時中の言動など、香淳皇后の動静が初めて詳述された。Advertisement「おきさき教育」の内容は? 香淳皇后は当時皇族の久邇宮家の長女・良子(ながこ)女王として誕生。 14歳だった1918(大正7)年に皇太子妃候補に決まり、24(大正13)年に当時皇太子だった昭和天皇と結婚した。 編さんに使われた約1500件の資料は、女官長日記や女官日誌など非公開の内部文書、久邇宮家関連文書など。皇后自身が記した日記の存在も調査したが、見つからなかったという。 皇后の学びの内容は、宮内庁書陵部所蔵の未整理資料から新たに見いだされた「御教授日録」などで詳細が判明した。 皇太子妃候補に決まった直後に学習院女学部中学科を退学し、宮邸に専属の教育場所「御学問所」が構えられた。 講義内容は修身(道徳)やフランス語、和歌や数学など。結婚後は「現代家族法の父」とされる法学者の穂積重遠から「婦人論」や「夫婦の法律と道徳」などを学んだ。「銃後の守り」を率先結婚から2年、皇太子と皇太子妃だったころの昭和天皇と香淳皇后=1926年(宮内省=当時=提供)写真一覧 日中戦争や太平洋戦争と皇后の関わりも、より鮮明になった。 女性皇族を国内各地に派遣して陸海軍病院を慰問させ、軍に奉仕する婦人活動の情報を収集した。 こうした「差遣(さけん)」は国家総動員法が制定された38(昭和13)年や戦況悪化の43(昭和18)年で活発だった。 朝鮮や台湾などにも差遣があり、出向く女性皇族には、軍司令官へのことばを託した。官民挙げての銃後の活動に「深ク満足」などの内容だった。 戦時中も受け続けた穂積の講義は、日独伊三国同盟など国際情勢、「大東亜戦争の遂行方針について」「軍人援護について」などの内容になった。「銃後の守り」を率先して果たそうとする皇后の姿が浮かぶ。 宮内庁は編さん方針を「確実な資料や情報に基づいた内容のみを記載した」と説明する。 分量は昭和天皇実録の3分の1ほどになった。担当職員は「天皇と比べて皇后の動静は公文書に残りづらい」と振り返った。 昭和天皇との会話や心情を記録する資料も乏しかったという。家系の色覚障害を理由に元老山県有朋らが婚約辞退を求めた「宮中某重大事件」の心境を明らかにするには至らなかった。 過去には、一般公開を前提とせずに編さんされた天皇、皇后の実録もある。宮内庁は今回、初めてホームページで全文を公開する。【山田奈緒、高島博之】あわせて読みたいAdvertisementこの記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>