毎日新聞 2025/10/9 06:15(最終更新 10/9 06:15) 有料記事 1938文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷弟の相川国義さん(故人)が描いた絵を見ながら長崎市の爆心地付近の惨状を思い出す福井絹代さん=青森市で2025年9月15日、足立旬子撮影 14歳の夏だった。広島で原爆に遭い、2歳下の弟と焼け野原をさまよって何とか親族のいる長崎へ。ところが、その避難先でも被爆し、地獄絵図を見た。 奇跡的に助かり、95歳になる今日まで生きてきた。だが、2度も被爆して周りから好奇の目で見られるのを恐れ、長年口を閉ざした。 そんな女性が青森市で暮らしている。自身の体験を語るようになったのは、80代になってからだ。 女性は、福井絹代さん。長崎市で生まれた。両親の離婚で広島へ 両親の離婚後、父の転勤で、弟と一緒に広島市に引っ越した。父の出征で弟との2人暮らしを余儀なくされた。 1945年8月6日は自宅で洗濯物を干していた。家の中に入った瞬間に閃光(せんこう)が目に入った。 自宅は爆心地から1・8キロしか離れていない。爆風で家は倒壊し、弟とともにがれきの下敷きに。しばらく気を失っていた。 先に抜け出した弟が手を引っ張ってくれ、一命を取り留めた。顔はやけどで傷だらけ。左耳の聴力を失った。 道ですれ違う人たちは背中の皮がむけて垂れ下がり、それを踏まないように泣きながらつま先立ちで歩いていた。遺体の間で野宿して一晩を明かした。 翌7日、父の友人と出会い、港から船に乗って瀬戸内海の似島(にのしま)に行った。そこでは救護所で負傷した日本兵を看病した。 8日に再び広島市内に戻ると、避難列車が3日間だけ無料で運行されると聞いた。 「子ども2人だけで住む家もなく、頼る人もいない。親族のいる長崎に戻るしかない」。そう決断し、西に向かう列車に弟と乗った。 9日午後のことだった。…この記事は有料記事です。残り1280文字(全文1938文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>