毎日新聞 2025/10/7 13:00(最終更新 10/7 13:00) 1012文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷苅田町与原の中津街道に立てられた「行通安全 大正十四年八月」の文字が刻まれた標柱と山内公二さん=2025年6月23日午後1時22分、松本昌樹撮影 中津街道は江戸時代初頭、豊前の国を治めていた細川忠興によって整備された小倉、中津の両城下を結ぶ約52キロの幹線道。尾張国(愛知県)の呉服問屋のご隠居、菱屋平七は中津街道を歩いた記録を旅日記「筑紫紀行」として書き残し、当時の街道を知る貴重な資料になっている。時代とともに変貌してきた旧街道を探訪した。 旅の起点、小倉城下から企救郡(現在の北九州市東部)と京都郡(現在の福岡県行橋市、同苅田町、同みやこ町)の境を過ぎると中津街道はしばらく消えるが、苅田町神田町から京町にかけては国道10号の西側に並行して約2キロの旧街道が残る。Advertisement 菱屋平七が中津街道を訪れた8年後の1810(文化7)年、伊能忠敬率いる測量隊も九州に入り、常盤橋から豊前国各地への測量の旅に出た。郷土史家の山内公二さんによると、忠敬は1月17日に苅田に入り6日かけて中津までを測量。翌11年にも上毛郡(現在の福岡県豊前市、同吉富町、同上毛町)から曽根までを4日間歩いた。 測量隊は、絵図師や天体観測機材の運搬人など一行18人。村の庄屋宅や寺などを宿舎にしており、神田町の旧街道沿いには、一行が泊まった浄厳寺が今も残る。 苅田町の近衛橋付近で国道10号を横切り、住宅街の中を進む。この辺りは与原下地区でさらに南下したところが与原上地区。鉄道や道路の上り下りと逆なのは、宇佐神宮に近い方が上になるのだという。山内さんが教えてくれた。豪商、飴屋の屋敷に造られた「御成門」=福岡県行橋市行事で2025年6月23日午後2時25分、松本昌樹撮影 付近の沿岸では、江戸から製塩業が栄え、小倉藩の重要な産業となった。現在は干拓が進んで工場用地や宅地が整備されているが、戦前までは約2キロ先に見える行橋市の蓑島から漁師が舟で魚を売りに来ていたという。街道沿いには製塩の発展を願って陸奥の国(現在の宮城県)から勧請した塩釜神社があり往時の繁栄がうかがえる。 苅田町二崎で再び国道10号を横切り行橋市へ入る。長峡川にかかる万年橋(別名・飴屋橋)は、市の名前の由来となった「行事村」と「大橋村」を結ぶ。橋のたもとには江戸時代、行事村を拠点に国内貿易で栄えた豪商、飴屋の屋敷跡がある。屋敷は小倉藩主が領内視察の際に宿泊所として利用したため、藩主を迎える「御成門」が残っている。 長峡川の河口に位置し、当時は陸と海の物流が交差する交通の要衝だった。川の両岸には京都郡と仲津郡(当時。今の行橋市とみやこ町の一部)の米蔵があり、集められた米がここから船で小倉城下や大阪の市場に送られた。【松本昌樹】あわせて読みたいAdvertisement現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>