毎日新聞 2025/10/7 06:30(最終更新 10/7 06:30) 1118文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷ガザ市から避難する車で渋滞する道路=パレスチナ自治区ガザ地区で2025年9月15日、アシュラフ・ソラーニ撮影 パレスチナ自治区ガザ地区の戦闘開始から、7日で2年となった。米国の和平案に基づき、イスラエルとイスラム組織ハマスの停戦協議が始まったが、先行きは見通せない。 徹底的な破壊と殺りくが行われたガザ地区の市民は今、何を思うのか。高校教師で、毎日新聞の現地助手も務めるアシュラフ・ソラーニさん(50)が手記を寄せた。Advertisement1日1食の日も この戦争が始まってから、2年がたったとは信じられない思いだ。苦難に満ちた日々だった。2023年10月7日は、私たちから心の平穏、静かで幸せな日々をすべて奪い去った。「2年前、10月7日さえ来なければ良かったのに」。そう考えると、私の心は張り裂けそうだ。 今年1月には一度、一時停戦が実現し、私たち家族は約1年2カ月ぶりに、故郷であるガザ市へ戻った。生まれ育った町への帰還は、本当にうれしかった。戦争が終わるかもしれないという希望もあった。しかし今思えば、この一時停戦は単なる「休憩」に過ぎなかった。栄養失調のため、栄養剤を口にする生後7カ月の子ども=パレスチナ自治区ガザ市で2025年7月27日、アシュラフ・ソラーニ撮影 停戦が終了し、3月に入ると、イスラエルはガザ地区に入るすべての支援物資の搬入を停止した。私たちは、致命的な飢餓状態に置かれ、大人、子ども問わず、栄養失調に陥る人が続出した。我が家も4月には、1日1食しか食べられない日があった。食べ盛りの子どもたちに満足にご飯をあげられない日々は、本当につらいものだ。美しい日々を取り戻すために イスラエル軍のガザ市制圧作戦が迫る中、9月には再び故郷を離れ、中部デルバラーに避難した。実に16回目の避難だ。追い打ちをかけたのは、イスラエルが10月1日、「ネツァリム回廊」を掌握し、ガザ北部と南部を分断したことだ。これでガザ市に戻ることは困難になった。 ガザ市にいまだとどまる私の教え子もいる。一体いつまで、このような生活が続くのか。そう思うと、悲観的にならざるを得ない。 ガザの人々はこの2年間、停戦を待ち焦がれてきた。この間数多くの停戦案が飛び交ってきたが、試みはすべて失敗し、私たちを失望させてきた。そして今、かすかに希望が見えている。トランプ米大統領が新たな和平案を提示し、イスラエルとハマスが受け入れる姿勢を示している。 ただ双方は一部で条件闘争をしているという。しかし、大規模な破壊を経た今、10月7日以前の美しい日々を取り戻すために、もはや他に選択肢はない。今こそ、双方が和平案を受け入れ、この大虐殺(ジェノサイド)を止める時だ。【翻訳・エルサレム松岡大地】アシュラフ・ソラーニ毎日新聞のガザ地区担当助手を務めるアシュラフ・ソラーニ氏=本人提供 1975年ガザ市生まれ。98年から高校の英語教師として働き、2014年から毎日新聞のガザ地区担当助手としても活動。弊紙に戦禍の日常を記録した「ガザ市民の日記」を執筆している。【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>