キャンパる:在外被爆者救済に尽力 自らの被爆体験伝承にも取り組む89歳被爆者

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広島市の平和記念公園を案内してくれた豊永恵三郎さん。今も同公園で被爆体験を語る活動を続けている=佐藤香奈撮影 広島での原爆投下の記憶を伝えてきた「ヒロシマを語る会」。被爆当時の惨状を実際に知る同会最後の生存者として、被爆80年の今年も伝承活動を続けているのが豊永恵三郎さん(89)だ。在外被爆者の支援活動に長く携わる傍ら、自らの被爆体験を伝え続けてきた。活動を続ける思いや支援に対する考えを尋ねた。【上智大・佐藤香奈(キャンパる編集部)】母と弟を探して 1945年8月6日、当時9歳だった豊永さんは中耳炎の治療のため、家族と離れ1人で市外に出かけていた。原爆が投下された時、爆心地から約10キロ離れていたのでけがはなかったが、翌日、爆心地から約2・5キロの広島市内に住む母と弟を探しに戻って被爆した。建物の取り壊し作業中だった母親は重いやけどを負い、母の下敷きになってけがを免れた3歳の弟も、下痢など長く体調不良に苦しんだ。Advertisement原爆投下時に、火事の延焼を防ぐため、建物を壊す作業をしていた母と弟が被爆した地点を指す豊永恵三郎さん=広島市で、佐藤香奈撮影 父親を病気で戦前に亡くしていた豊永さん一家は、戦後、爆心地から11キロ離れた親戚の家のそばに家を借り、新たな暮らしが始まった。母子家庭で生活は楽ではなかった。高校卒業後は就職を考えていたが、大学進学を後押ししてくれたのはそれまで生活を支えていた母親だった。奨学金をもらい、アルバイトを掛け持ちして61年、広島大学を卒業。私立高校の教師となって広島市で暮らした。支援なき被爆者との出会い そんな豊永さんが在外被爆者支援の活動に関わり始めたのは71年。韓国在住の被爆者が救済を求めているというニュースを見て、韓国での教員研修に参加した際に、広島で被爆したという韓国人4人と会ったことがきっかけだった。 在外被爆者とは、戦争中に広島、長崎で被爆したものの、戦後日本以外に居住して政府の支援を受けられなかった被爆者のこと。朝鮮半島出身者や海外に移住した日系人が大半を占める。厚生労働省によると、今年3月末現在で約2200人を数える。1971年、在韓被爆者の方々に会った豊永恵三郎さん(左から2番目)=豊永さん提供 豊永さんが韓国で会った4人は、日本統治下で日本語を強制的に学ばされており、通訳なしで会話できた。体調が悪くて働けない上、日本からも韓国からも支援を受けられないことに、豊永さんは衝撃を受けた。日本は65年に締結した日韓基本条約で両国間の補償問題は解決済みとの立場を示しており、「放置されている現実が苦しかった」という。 71年、大阪で弁護士や市民らが「韓国の原爆被害者を救援する市民の会」を設立。豊永さんは協力を申し出て、教員仲間や医師と共に、広島支部の立ち上げに奔走した。広島支部は72年末に設立し、豊永さんは支部長を務めたのち、4年前から代表を務めている。在外被爆者が手帳の交付を受けたり治療費や手当を受給したりできるように、裁判の支援に尽力してきた。在外被爆者を放置した国を追及 最も印象に残っている裁判は、戦時中に広島に強制的に連行されて被爆した三菱重工業の韓国人元徴用工40人が、国に損害賠償などを求めた訴訟だという。95年の提訴以来、豊永さんは証言の収集や書類作成などでサポートした。2007年に最高裁が、国が在外被爆者を放置していた責任を初めて認め、国の賠償責任が初めて確定した点を、豊永さんは高く評価した。 ただ、原告の元徴用工らは「うれしそうには見えなかった」という。係争中に亡くなった原告の遺族には賠償金は支払われず、雇用した三菱重工業からの未払い賃金の支払いは認められなかったからだ。被害を受けているのに、何の支援も受けられず亡くなっていく人も多い。日本人として「加害責任を感じなくてはいけないのではないか」というのが、豊永さんの思いだ。 豊永さんはこれまで40年にわたり、韓国だけではなく、アメリカ、ブラジルなど世界各地に住む在外被爆者の裁判の支援に携わってきた。合計で43件の裁判が起こされ、約半分に関与した。ブラジルに住む日系人被爆者は、祖国を大切に思う人が多く、日本に裁判を起こすことについて初めは抵抗があったという。しかし、「支援から疎外した日本政府に責任を認めさせるには裁判しかなかった」。 広島で在外被爆者らの集会を行ううちに、豊永さんと韓国、アメリカ、ブラジルなど各地の在外被爆者との間に、友情が生まれていった。次第に在ブラジルの被爆者も、健康被害は日本が戦争をした結果だと納得し、裁判への反発も減っていったという。豊永恵三郎さんの被爆者健康手帳。原爆投下翌日、母と弟を探して広島市内に入り、被爆した=広島市で、佐藤香奈撮影心境変化のきっかけ 在外被爆者支援に取り組む一方、豊永さんは自らの被爆経験については教員時代の前半、ほとんど語ることがなかったという。「過去をあからさまに出すのが嫌だった」と豊永さんは語る。被爆体験を話すのは勇気が必要だったという。 そんな豊永さんの心境が変化したのは83年、大阪府立西成高校の先生らが被爆の証言者を探して豊永さんの務める高校を訪れたことがきっかけだった。 被爆者であることを伝えると、体験を生徒たちに話すよう依頼された。同年11月、生徒たちを連れて広島市の平和記念公園の慰霊碑巡りをした後、ホテルで自らの被爆体験を話した。生徒たちは、始めは話を聞く気がなさそうに見えたが、次第に耳を傾けているのがわかった。 9歳の時に出かけた先で、たった一人で爆風を浴びた豊永さん。翌日、広島市内に住む母親と弟を必死で探し、途中で真っ黒に焼け焦げて男女の区別も分からない遺体を目にした。被爆から2日後、ようやく救護所で再会できた母親は、顔もわからないほどのやけどをしていた――。 そんな豊永さんの話を聞いた2人の女子生徒は、涙を流しながら「こんな話は初めて聞いた。これからも語り続けてほしい」と話したという。原爆ドームを指さし、被爆当時の状況を説明する豊永恵三郎さん=広島市の平和記念公園で、佐藤香奈撮影これが最後の仕事 32年間教員を務めた豊永さんは、この出来事があってから、授業を持つクラスでは初回のあいさつの際に決まって被爆体験を話すようになった。また、平和学習で広島を訪れる修学旅行生らのために被爆体験を語る活動を開始。84年、被爆者13人で「ヒロシマを語る会」を結成した。 ヒロシマを語る会はメンバーの高齢化や体調を考慮して01年に一度解散し、豊永さんは単独で証言活動をしていた。しかし23年に元メンバーのうち生存する被爆者が豊永さんのみとなったことを機に、「語れるうちに記憶を引き継ぎたい」と豊永さんは同会を再結成。被爆2世や手帳を持っていない原爆被害者など15人のメンバーで、修学旅行生らに被爆体験を語っている。 今は記憶を語り伝える活動に専念し、これを最後の仕事にしたいと考えている。「裁判の支援は他の人でもできるが、自分の記憶は自分にしか語れない」との思いからだ。「命のある限り、最後まで続けたい。話を聞いた子どもたちには、どうしたら平和な世の中を続けられるか、自分なりに考えてもらいたい」と願いを語った。