毎日新聞 2025/9/23 11:00(最終更新 9/23 11:00) 有料記事 2139文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷出発前に記者会見する初代青年海外協力隊の5人。左から2人目が大西規夫さん=1965年(国際協力機構提供) 天井から落ちてきたのはスコールと爆弾の破片だった。部屋のあちこちにできた隙間(すきま)の向こうには、開発途上国の厳しい現実が広がっていた。 過酷な環境で耐え忍ぶこと2年。日本初の青年海外協力隊員がまいた種は、60年の時を経て大きく花開いている。 大西規夫さん(84)=東京都渋谷区=は北海道中部の秩父別町で生まれ育った。徳島から入植した祖父が森を切り開いて作った水田15ヘクタールでの農作業を幼少の頃から手伝った。 高校卒業後の1963年に米国に渡り、大規模農場で1年間研修を受けた。 当時の米国は国際協力の機運が高まっていた。ケネディ大統領が61年、海外ボランティア「平和部隊」を創設。途上国の人道支援や開発援助を行う国際開発局(USAID)もつくった。 「世界には貧しい国々がたくさんある」。大統領の言葉と国際協力に熱中する若者たちの空気に、大西さんも感化された。 「日本でも同じことができないだろうか」。そんな思いを抱き帰国した翌年、日本でも青年海外協力隊が設立された。 すぐに応募し、700人以上の中から5カ国に派遣される29人に選ばれた。派遣先はラオス。ミッションは稲作の技術指導だ。 出発直前、地元に戻ると、親戚に渡航を止められた。隣国のベトナムは米国との戦争のまっただ中。それでも「乗りかけた話だ。行く」と譲らなかった。 65年12月24日、隊員番号1番となった24歳の大西さんは日本初の海外協力隊員として飛行機に乗り込んだ。日本の伝統的な稲作を指導 向かったのは、首都・ビエンチャンの郊外にあるラオス政府の農業試験場。集落が点在する地域に、ほ場と長屋があった。 だが、農機具がない。「何を協力したらいいんだ」。…この記事は有料記事です。残り1425文字(全文2139文字)あわせて読みたいAdvertisementこの記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>