結婚するには断種、子を授かれば堕胎 「国家の恥」とされた患者たち

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朝日新聞連載ハンセン病 残された記憶 埋もれた記録記事有料記事田辺拓也2025年9月22日 10時00分国立ハンセン病資料館の内田博文館長=2025年3月3日午後、福岡市中央区、田辺拓也撮影 「結婚」と「断種」はなぜセットだったのか――。 ハンセン病療養所では、結婚の条件として断種(不妊手術)が求められ、子どもができれば堕胎(人工妊娠中絶)が行われました。大正時代の1915年に始まり、当時は違法性に問われる可能性がありました。 第2次大戦後の1948年、国は優生保護法を定めて「不良な子孫の出生を防止する」目的で、ハンセン病患者などに対する断種・堕胎を合法化しました。それ以来、改正される96年まで合法でした。 国によると、同法のもと、ハンセン病を理由に行われた不妊手術(優生手術)は1551件、人工妊娠中絶は7696件行われたとされています。 断種・堕胎は誰が、何を目的に始めたのでしょうか。そして、なぜ「結婚」と結びついたのでしょうか? その疑問を国立ハンセン病資料館(東京都東村山市)の内田博文館長に聞くと、「過去の話」ではなく、被害者が「いま」も苦しむ問題であることを教えてくれました。園の秩序維持のために「断種」 ――なぜハンセン病患者に対して断種・堕胎が行われるようになったのでしょうか。 ハンセン病患者が「国家の恥」と見なされたことにさかのぼる。 明治時代、日本は日露戦争に勝利し「世界の大国」になった。 一方、国内のハンセン病患者数は文明国の植民地と同水準ということが、国の調査で報告され衝撃を与えた。 さらに、欧米人が自由に往来するなか、国内の神社や仏閣などでは物乞いする患者が多く見られた。 国は、患者を絶滅させる考えで1907年に法律「癩(らい)予防ニ関スル件」を制定し、ハンセン病患者の隔離に踏み切った。 その後、1930年に国立療養所が開園し、国は強制隔離政策を推し進めた。 当然ながら、患者の根絶を目指す国は、患者が子を産むことを認めなかった。そこで、患者に対して断種・堕胎が行われた。 ――患者に対する断種はいつ始まった? 1915年、ハンセン病患者の公立療養所・全生病院(後の国立療養所多磨全生園)院長だった光田健輔氏が、療養所内で結婚を許す条件として断種を行った。それがきっかけで、全国の療養所に広まった。 光田氏は、療養所内で男女の交渉を認めることが園の秩序維持につながると考えた。 ――1人の医師が行ったことが、全国に広まったのですか? 「ハンセン病の権威」と呼ばれた光田氏は、国に強い影響力を持つ人物だった。 日本初の国立ハンセン病療養所・長島愛生園の初代園長で、強制隔離政策を主導する地位にあり続けた。国と光田氏を結びつけたのは渋沢栄一氏ら政財界人で、多くの患者を診てきた光田氏の意見は国策に反映されていった。 影響力は、全国の療養所にも及んだ。入所者に「同意」拒む選択肢なし ――なぜ断種が結婚の条件と…この記事を書いた人田辺拓也映像報道部専門・関心分野ハンセン病、写真関連ニュースこんな特集も注目ニュースが1分でわかるニュースの要点へ9月22日 (月)能登豪雨から1年、復旧道半ば銃撃の背景に「宗教的な虐待」Perfumeが今年末で活動休止9月21日 (日)USスチール工場停止 米が阻止藤井選手 女子20キロ競歩で銅JRネット予約 全国で連携へ9月20日 (土)ETF売却、日銀が決定日本郵便の非公表、昨年把握今年も日本にイグ・ノーベル賞9月19日 (金)日経平均終値 初の4.5万円超「国勢調査」相次ぐ不審メール増える観光客 迷惑行為に罰金トップニューストップページへメダル逃した男子リレー、日本の武器に誤算 桐生は「僕の責任です」0:23出回る「おもちゃ」の銃、36人摘発 多くが未回収、ネットで転売も7:00都市部で突然の大雨、地下に潜って雨宿り「決してやってはいけない」6:00パレスチナの国家承認 「国際法上の国家」になるとは 撤回の場合も7:00結婚するには断種、子を授かれば堕胎 「国家の恥」とされた患者たち10:00何だこの税額!? 31万円で町から買ったのに…建物評価のカラクリ10:00