旧日本軍戦跡も活用 台湾が取り戻す「この島であった戦争」の記憶

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毎日新聞 2025/9/19 05:30(最終更新 9/19 05:30) 有料記事 2610文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷旧日本軍の彰化飛行場に関する展示について説明する日新小学校の鄧仕文校長=台湾中部・彰化県で2025年8月27日、林哲平撮影 1937年の日中戦争開戦から8年間に及ぶ日本の戦争は、統治下にあった台湾の人々をも歴史の渦に巻き込んだ。だが戦後の独裁政権時代には戦時中の台湾を知ることはタブーとされ、公に語られることはほとんどなかった。民主化を経て台湾人としての意識が定着する中、「閉ざされた記憶」を取り戻そうとする動きが広がっている。 一面に広がる田んぼの中に、高さ7メートルの塔が突き出したようにそびえていた。外壁のコンクリートの一部は草むし、ところどころ崩れて中のレンガがのぞく。日本軍の「彰化飛行場」に残る対空砲台 台湾中部・彰化(しょうか)県福興(ふっこう)郷。コメ農家が点在する田園地帯には、かつて日本軍の「彰化飛行場」があった。淡江大学の王章凱(おうしょうがい)兼任助理教授によると、43年に建設に向けた土地の接収を開始。完成後は主に陸軍航空隊の訓練に使われたという。 現存する塔は戦争末期に米軍が台湾周辺に迫る中、落下傘兵の降下に備えて飛行場の一角に造られた対空砲台だとみられる。45年には付近で米軍機の空襲がたびたびあり、訓練中の学徒兵らが犠牲になった…この記事は有料記事です。残り2140文字(全文2610文字)【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載この記事の筆者すべて見る現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>