毎日新聞 2025/9/21 08:15(最終更新 9/21 08:15) 808文字ポストみんなのポストを見るシェアブックマーク保存メールリンク印刷乗船名簿をめくる安藤弘子さん=札幌市で2025年6月5日午後0時6分、伊藤遥撮影 「これがすごくうれしかったですね」 今年6月上旬。 女性が顔をほころばせながら自宅で記者に指し示したのは、終戦後の北方領土からの引き揚げ船の乗船名簿に記された「漁業」の2文字。 択捉(えとろふ)島で網元だった父親の職業欄に記載されていた。 「親が自慢していた話は本当だったんだ」 生後2カ月で家族と島から引き揚げ、記憶も記録もない女性にとって、この名簿は自身の出自を証明する貴重な資料となった。Advertisement2013年の択捉島訪問で仲良くなったロシア人のナターシャと3年後の訪問で再会し、贈られたマグネット。ロシア語で「択捉島」と記され、安藤さんの生まれ故郷が描かれている=札幌市で2025年6月5日午後0時7分、伊藤遥撮影 札幌市に住む元中学教諭の安藤弘子さん(78)は、1947年6月、択捉島の捕鯨工場がある港町に生まれた。 自宅前の小さな川ではサケやマスが手づかみでき、人々はストーブの上でイクラを焼いて食べた。 自身が四島出身と知ったのは、幼い頃に親から聞かされたためだ。 しかし、47年8月の引き揚げから間もなく父親は結核で他界し、女手一つで娘を育てた母親は多くを語らなかった。 それでも“引き揚げ住宅”と呼ばれる釧路市の市営住宅で10代まで過ごし、若くして病気で亡くなる人や、中学卒業後すぐに力仕事を始めざるを得ない子どもを多く見てきた。 「島には一旗揚げたい人や出稼ぎで本州から来る人もいたけれど、元々暮らしていた島民は本州にも北海道にも生活の土台がなく、居場所を失った。本当にみんな苦労した」 強い自立心から安藤さんは教員を志し、校長などを経て66歳まで勤め上げた。 このため、北方領土の返還要求運動や訪問事業に参加できたのは仕事が落ち着いた60代半ばから。 2012~16年に3度、択捉島で現地ロシア人と交流した。 中でもナターシャという名前の女性と、小説家トルストイの話題から仲良くなった。 「交流は楽しいですよ。『島を侵略した人だ』とは思っていない」 ロシアの実効支配を正当化するわけにはいかないが、相手国の市民を思う気持ちもある。 「平和に行き来できる関係がいいよね」 生きているうちに再訪したいと願っている。【伊藤遥】【時系列で見る】関連記事あわせて読みたいAdvertisementこの記事の特集・連載現在昨日SNSスポニチのアクセスランキング現在昨日1カ月アクセスランキングトップ' + '' + '' + csvData[i][2] + '' + '' + '' + listDate + '' + '' + '' + '' + '' + '' } rankingUl.innerHTML = htmlList;}const elements = document.getElementsByClassName('siderankinglist02-tab-item');let dataValue = '1_hour';Array.from(elements).forEach(element => { element.addEventListener('click', handleTabItemClick);});fetchDataAndShowRanking();//]]>